27. 真っ青な空に

 もしもし、ヒガシダさんのお電話ですか。



 今お時間よろしいでしょうか。



 やあやあどうもすみません。駅長の◯◯です、覚えていらっしゃいますか。ええどうも、その節はどうもありがとうございました。見事なAED捌きで本当に感心しましたですね、ええ。あ、AEDを操ったのはお連れの女性の方でしたな。とても綺麗で眼鏡を掛けた……トキトオさんでしたな。先程お電話させていただきましたですが、また是非お会いしたいものです。ああいうテキパキと何でも冷静にできる女性というのは本当に珍しい。そうです、私はあの素敵な方のフアンなんでしょうな、フェッフェッ。いや、ヒガシダさんが大変羨ましいです。うちのカミさんなんか……いや、こんな話の為に電話したんじゃないんです。


 オオエさん、オオエさんがね、亡くなったんです。

 ニュースをご覧になりましたか?

 そうです、はい、先日の池袋の。通り魔の事件です。


 オオエさんはその日、手芸用品を取り扱う専門店で買い物をされていたそうなんです。何やら急に予定が無くなったとかで、楽しい休日を満喫していたんでしょうね。そう、夏休みですから高校生は。夏休み、良いですねぇ。私にも夏休みがあったんですよ、ずいぶん前の事ですがね。福島の遠縁の親戚の家がありましてな……上野駅からあれは特急何号だったかな……あいや、また逸れそうになっちまいました。


 どうやら何か手作りしようとしていたらしくてですな、材料をしこたま買い込んでおったようです。そうそう、オオエさんは手芸部に所属していたそうなんですよ。毛玉やらビーズやら布やらたくさん買い込んでおったようですな。夏休みの間に部活があるかどうかは知らないですがね、何か作ろうとしておったのでしょう。時刻は大体三時ちょっと過ぎくらいですか。池袋でも人通りがとても多い時間帯です。


 オオエさんは買い物を終えて、サンシャイン60から駅に向かう地下道から地上へ向かうエスカレーターに乗ったんです。ええ、それはもう、もちろん何気ない、いつもの日常のひとつですよ。一日が終わって眠る前に、「ああ、今日はエスカレーターに乗ったな、楽しかったな」と振り返る人はまぁ一人もおらんでしょう。エスカレーターというものは、それ程までに我々の生活の一部として存在しておるのです。今まで何度エスカレーターに乗ったか覚えていますか? 私は覚えていませんですね。今まで累計ビル何階分くらいエスカレーターに乗ったのかさえ想像した事もありゃしません。日本には短いのから長いのまで、実に多種多様な……いやすいません、いや、勿体ぶってる訳ではないのです。私はついこういう遠回りな話ばかりしてしまうですね。歳はとりたくないものです、ふぇっふぇっ。


 オオエさんの日常にも恐らく、そうやってエスカレーターはあったですが、いつもと違うところは、その自動的に運ばれ登った先に、トンカチとナイフを携えた男が立っておったという事だったのです。工場のベルトコンベアーに運ばれるみたいに人間が上がってきて、その終点で男が無差別に人を殴ったり刺したりしたって訳です。工場では普通、何かを作るためにいわゆる流れ作業をするものです。点ABCにネジを締める場合、一人で全てを締めるよりも、AとBとCの点に一人ずつ割り振った方が忘れもせず、確実にカッチリと締まる。そうした場合に流れ作業というのは有効なのです。でも、あの男がやった事は単に人殺しでした。いわば、出来上がって梱包するだけになった完成品を勝手に壊すバグみたいなものです。登ってきた人間に無差別にトンカチを振り下ろしたり、ナイフで刺したりしました。運良く逃れた人もおったのですが、その男を取り押さえるっちゅう事はしなかったようです。そこで喧嘩でもすればまぁ、何とかオオエさんも助かったかも知れんのですがね、でも相手はトンカチとナイフを持ったキチピーですからな、何も出来なくても文句は言えんのですよ。あの手の者にはね、近くに寄るにはとても勇気がいるんです。私はね、駅員としてそういう人を何度も見ていますが、あれはもう人ではない何かになってます。私には分かるんですな。ピッと来るんです。これは人として接するべきなのか、そうではないとして処理をするべきなのかと。これは見誤ると大抵怪我をさせられます。素人では見分けなんかまぁ出来ませんでしょうな、ええ。無理はしない方がいいです。


 エスカレーターを登って、目の前の人が傷つけられている様をみて、オオエ様もさぞかし恐怖だったでしょう。本当は走って引き返したかった筈です。でもエスカレーターはさっきの通り、人を運ぶベルトコンベアですからね。池袋に向かう前の坂戸駅みたいにね『あっ、やっぱり降りよう』などと途中下車は出来ない訳です。エスカレーターはそうはいかない。そうですな、まるで人生のようですな。一度乗ってしまえば、もう登りあるいは下り、やがて時が来れば一人で硬く冷たいステンレスの上に降り立つしかない。そこにTOSHIBAと書いてあろうが、MITSUBISHIと書いてあろうがどうでも良いことです。些細な事です。始点があり、やがて終点が訪れることが重要である訳です。


 そうしてオオエさんは殺されてしまいました。頭がおかしい青年の身勝手な動機で、まず最初にトンカチで叩かれたそうです。腕には防いだ跡があったですが、それを超えて二発ほど、側頭部に跡が残っていたそうです。それからこれが致命傷になるですが、腹部に ──四箇所、そうですな、三度目の傷が肝臓に届いて、だいぶ出血をなさったようです。そこから大量に失血して亡くなったと、そういう事のようです。


 私はね、彼女は何も悪いことはしてないのに、何故殺されたかって事についてはね、ほとんど何も考える事が出来ないんです。もちろんね、殺されて気の毒だと思うんですよ。あってはならない事です。犯人にはどんな事情があれ、普通に暮らす人間を傷つけ、損なうことは決してあってはならない。言語道断です。死刑になって欲しい。許せない。でもね、毎朝駅で、電車の車両からドワァーって人が溢れて出てきますでしょう。本当にね、池袋っていう駅は人がものすごいですから、朝のラッシュもはっきり言って異常ですよ。人が経験すべきストレスでは無いですよ。もし牛や鶏だったら牛乳は止まりますし、卵も産めやしません。

 そうした車両の中で見知らぬ人達が触れ合うように毎朝接しておってですね、何も無い方がおかしいと私は常々思っておるのです。毎日毎朝ですよ。ちょっと尋常じゃないラッシュで大勢という人たちが車両に詰め込まれて、がたんごとん、ガタンゴトン、始発から終点まで運ばれておる訳です。朝の夢をね、みんながみんな同じ夢を見ておるようにね、私には見えるんですがね、ごく稀に一人だけ、何万人かに一人だけ眠らない方がおるのです。僕、私はみんなとは違う、恐らくこの世の何かがおかしい事に気が付いている何者かがですな、電車の中で皆と同じ夢を見ずに一人だけポッと降りてくるですよ。あ、この人は違うんだな、って私なんかは思うんです。この人は他の人達と同じ夢を見ないヒトだ、ってんでね、私くらいになるとすぐに分かる。こう見えてプロですから。どわあっと溢れる人波からパッとね、見つける事が出来るんですよ。よく言う、砂浜から一欠片の砂金を見つけるようにね。ええ、得意です。


 オオエさんを刺したのは間違いなくその何万人かの内の一人だったって私は思います。そうしてね、彼が殺した事で、オオエさんはもう、みんなと同じ夢を見ることが出来なくなったんです。毎朝電車に乗ってね、同じ車両の人達と何チャンネルかは分かりゃしませんが、オオエさんは同じように見ておったのでしょう。でも、彼女はもう途中下車しちまったんです。あるいはね、ずっと始発から終電まで下車する事なく、我々が見させられる夢の一部になっちまったのかも知れません。これは大変心が痛むことです。本当に、どうしてこうなちまったのか、私には分からんのです。考えるだに辛い。ただ肉親や兄弟や妻や子供達と一緒に、同じ夢を見続ける事ができる幸せに感謝する事しかできんのです。家族と一緒に見る公園の真っ青な空にポッカリと浮かぶ入道雲、これに勝る幸福がありますでしょうか。


 大変ショッキングなお知らせで申し訳ございません。

 何故私から電話を掛けさせていただいたかと言うと、個人情報の扱いの条項によってですね、オオエさんのお父様とお母様に電話番号をお教えする事が出来なかったからなんです。サインを戴いたフォーマットは数年前のものでしてな、最新のものにする前だと、第三者には本人にしか電話番号をお教えする事が出来ないと、まあそういう事なんです。オオエさん自らご両親にヒガシダさんの電話番号をお教えしていれば、私なんかが出る幕ではなかったのですがね、事情が事情なのでこうして私から電話を掛けさせていただいておると、まあそういう訳でございます。


 あ、ご両親にヒガシダさんの電話番号をお教えして良いと?

 分かりました、口頭での了承という事でこちらからご両親に通達をさせていただきたいと思います。ただね、ヒガシダさん。多分、ご両親からの連絡は無いと思います。自分の娘がね、ただ一人下車してしまった事についてはね、これは子を持つ人にしか分からない苦しみでしょう。ただ私としてはひたすらご冥福をお祈りする事しか出来やしません。本当に、このようなお知らせをする事が残念でなりません。ヒガシダさんもお体には気を付けて。出来れば、周囲と頭上に注意を向けてください。電車が脱線する事は滅多にありませんが、日常生活において誰かの命を奪おうとする者や、建設中の建物から落下する鉄パイプは我々が想像するよりもずっと多いのです。いいですか、は私達と同じ夢を決して見ることがありません。私を除いて、誰一人として彼とを見分けをつける事なんか出来やしないのです。どうかご注意ください。


⬛︎


 空から鉄パイプは落ちてこなかったが、その数日後にサンシャインシティで飛び降り自殺があった。男性はサンシャインシティに繋がる地下道の屋根を突き破り、通路脇のみすぼらしい花壇に頭から落下して死亡した。でもそれは、僕が語る一連のトキトオさんの話とは一切無関係だ。単なる余談でしかない。









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