26. 良いニュース

「ようやく手術が決まりました。明後日やりましょう」


 僕と母を前にして、医師は天気を予報するような口調で言った。明後日の天気は晴れ時々曇りでしょう。脳の太い血管がやや破れやすいので、洗濯物は早めに取り込む方が良いでしょう。

 父が入院して二ヶ月が経っていた。当初はすぐにでも手術というような流れであったが、延期に延期を重ね、父の意識は混濁し、個室の中で大袈裟な機械に囲まれていた。脳の圧が高まり、脳味噌を圧迫しているのだという説明を受けた。脳にも圧があるのだ。


「こないだ説明した通り、絶対に流れを止められない大動脈、高速道路がここにありますわな」

 レントゲン写真を映した液晶画面にPILOTのボールペンを指し示した。それは白く写っている血管のようだった。

「この裏側を通して反対側の車線の外壁にへばりついた腫瘍、ほら、このボンヤリと写ってる雲みたいなこれ。例えば車の排気ガスが排出され、それがじんわりと吹き溜まっていった脂肪や石のようなゴミを取り除く作業ちゅー事ですわな。今までそれは難しかったので、何とか別の方法を模索していたのですが、先週、新しい手術器具が認可されましてね」

「器具」

 と僕が母の代わりに繰り返した。

「そうです。こう、何というか、線のような鋏であり、かつピンセットであり、さらにメスのような特殊な器具です」

「何だかすごそうですね」

 僕は素直に感想を述べた。

 それは鋏のようなピンセットなのか、ピンセットのような鋏なのか、メスのような線なのか、いまいち分からなかったからだ。器用貧乏という言葉が脳裏に浮かんだ。

「それを扱える医師がちょうど来日してまして、是非にという事でやって頂ける事になったのです。運というのはあるものですね。その医師は大変興味深い症例だと言ってました」

 どうぞよろしくお願いします、と僕と母は頭を下げて退室した。二人ともあまりに突然の展開に会話は少なかったが、食堂で食事をしているとやにわに現実味を帯びてきて、久しぶりの希望に心地よく浸った。


 ⬛︎


 問題は手術の日にちだった。

 オオエさんとの会食の日にちと被っていたのだ。まさか女子高校生と食事に行くために実の父親の手術をずらす訳にはいかない。


「どうしよう」

「どうもこうもないでしょ」

 屋上で呆れたようにトキトオさんが言った。

「脳の手術なのよ? 先生の手が『あっ』て滑ったらもうお父さんは終わりなのよ? LEGOブロックみたいにまた作り直せば良いって訳じゃないんだからね。もう二度と戻ってこないのよ? 呑気に外でご飯とか食べてる場合じゃないでしょう。お父さんを一人にしておくつもり?」

「そうですよね」

 僕は急に父の手術の日程が決まった事で気が動転しているようだった。

「僕は何を言ってるんだろう」

「仕方ないわよ、そういうものだから」

 ポンポンと僕の肩を叩いてトキトオさんが言った。

「親しい人が生き死にに関わってると、周りの人も普通じゃいられなくなるの。よく知ってる。でも、ちゃんと普通の生活をしないと駄目よ。わざと普通の生活をしてやるのよ。そうしたら、何気ない今までの事に感謝できるようになるの。まずは、オオエさんに断りの電話をすること。ちゃんと事情を話せば良いだけよ。また日を改めてって」

「 ──トキトオさん、ちょっと嬉しそうに見えますけど」

「そんな事ないわよ」

 目を逸らしながらトキトオさんが言った。

「日を改めるだけなんだから、あたしだって行かない訳じゃないんだから」

 僕はため息をついてiPhoneを手に取った。


「そんな大変な事があった何て知りませんでした」

 オオエさんが電話越しに驚きの声を上げた。

「どうぞお父様の方を優先してください」

「ありがとうございます」

 僕は礼を言った。それからオオエさんの顔を思い出そうとしたが、何故か思い出す事ができなかった。池袋駅でパッドを貼るために裂かれた制服から見えた余りに細い肩とベージュの地味なブラジャー、そしてAEDが起動した時のキュイーンという音ばかりが脳に蘇った。僕は電話をしながらトキトオさんを見た。トキトオさんは屋上の金網にもたれて、胸の前で腕を組んで僕を心配そうに見ていた。

「あたしは夏休みだし、いつでも暇なので、お気になさらないで下さい。宿題を終わらせたり、買い物をしたりして楽しく一日を満喫します。あ、プレゼントをお渡ししたかったので、じっくりと選ぶのもいいですね」

 オオエさんはキャピキャピとよく喋った。とても明るい子だ。なのに、どうして僕は彼女の顔を思い出せないのだろう。

 お父様の手術の成功をお祈りしております、とオオエさんが言って、何度か挨拶を交わして通話は終了した。

「大丈夫?」

 トキトオさんが心配そうに僕を覗き込んだ。

「何だか呆然とした顔をしてるけど」

「いつも通りですよ」

 と僕は言った。本当にいつも通りにしているつもりなのだ。

「トキトオさんはオオエさんの顔を覚えていますか?」

「え」

 トキトオさんはじっと俯いて思い出そうとした。夕日が彼女の影を色濃くアスファルトに焼き付けて、簡略化した同じポーズをした。

「覚えてるけど、口で説明するのは難しい。けど、どうして急にそんな事を言うの?」

「分からないんです。最近、忘れちゃいけないような事を忘れてるんじゃないかって、自分に対して疑心暗鬼になってるような気がする」

「ちょっと疲れてるのかもね」

 トキトオさんがあっさりと、気軽に言った。

「かわいい高校生だったわよ。肩くらいの長さの黒い髪で、真面目そうな雰囲気があって、小柄で。顔は丸顔でふっくらしてたんだけど、顔色はもちろん悪かった。当たり前よね、心臓が止まってたから。顔は芸能人でいうと、うーん、誰も似てる人はいないわね。強いて言うなら、TBSのアナウンサーかな。ほら、あのよく食べる女性。お昼によく出てる」

 じっと考えていると、トキトオさんが諭すように僕に言った。

「顔なんてどうだって良いのよ。会ったら嫌でも思い出すわ、そういうもんなのよ。気にしない気にしない。じゃ、あたし行くわね。ゆっくり休みなさい」


 父親の手術は無事に成功した。

 冗談みたいに頭部を包帯でぐるぐる巻きにされた姿で手術室から出て来た父は、絶対安静のままどこか特別な病棟に収容された。


 執刀した医師は若く小柄で、髪をわざとクシャクシャにするパーマを掛けた、鷲鼻の若い男性だった。タワーレコードで洋楽のLPを漁っている雰囲気がある。世界で数人しかいないという脳外科医と聞いていたが、全くそんな風には見えなかった。人は見かけによらない。

「まぁ、しばらく痛むでしょう。面会も意識が戻るまで、しばらくご遠慮ください」

 と執刀した医師が言った。

「脳自体に痛覚はありません。ただ、開頭した痛みというのは人類が最近経験した痛みですのでね、中々馴染みません。……と断言するような資格は僕にはありませんが。何しろ僕自身は脳を露出して手術された事がない。想像に過ぎない。でもまぁ何となく、頭蓋骨に穴を開けて線鋸でコリコリとね、手術用の窓を切り取る時にこりゃあ痛そうだな、と思うだけです。麻酔がなければ拷問でしょうね。ほら、ハンニバル・レクター。知ってます? あれは気持ち悪かった。蟹味噌じゃないんだから、食べますかねぇ普通、脳みそ。ねぇ」

 医師がカルテを見ながら世間話のように言った。我々は顔を逸らして想像しないように努力しなければならなかった。

「手術は文句なしの成功です。あ、取り除いたモノ見ます?」

「遠慮しておきます」

「結構凄いですよ?」

 嬉しそうに医師が言った。

「大丈夫です」

「そうですか」

 残念そうに医師が言った。

「経過も順調です。まもなく意識を取り戻すでしょう。ただ、面会してもしばらく返事が無い事もあり得ます。それでも優しい言葉を掛けてあげてください。聞こえていないかも、と思っても声を掛ける事が大切です。きちんと本人には届いていますので」

 僕と母は礼を言って退室した。


「これで一安心」

 と母がホッとしたように言った。

「あなたもそろそろ普通の生活に戻りなさい。今まで心強かったわ」

 うん、と僕は頷いた。父は手術を終え、生きて帰ってきた。これからまたリハビリを経て、毎日の生活を取り戻していくのだろう。父と話すべき事柄が多くあったような気がするが、今は何も思い出せない。目が覚めた時、何と声を掛ければいいのだろう。おかえりなさい、だろうか。そもそも、父は何処へ行っていたのだろう? わからない。


 僕は夕食の混雑が収まった頃合いの食堂で、コーヒーを飲みながら明日からの生活について考えた。食堂の中央にぶら下がっている液晶テレビに、この時間にしては珍しく多くの患者や見舞に訪れた人達が張り付いていた。池袋のサンシャインシティ付近で通り魔事件が発生した、というニュースが流れているようだった。池袋はすぐ隣の駅だ。テレビは僕にも見覚えのある景色を映していて、現地からアナウンサーが緊迫した様子で中継していた。でも、僕はあまりテレビを観る気にはならなかった。耳だけをテレビに向けていた。

 このトキトオさんが働いている清潔で大きな病院ともお別れだと僕は思った。不思議とそれ以上の感情は湧かなかった。日常生活に戻る。僕もまた、屋上から地上へ帰るのだ。






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