21. スギモトの随筆【コスプレ論】

 結局、私はこうして原稿用紙に向かっています。いつもの小説を書くポジションです。私が住んでいる古いアパートは1DKで、簡素なキッチンの隣の八帖程の部屋に薄い青色のカーペットを敷いて、テレビとちゃぶ台と本棚が置いてあります。ベッドとクローゼットは向かい側にあります。正直なところ、あんまり綺麗な部屋とは言えません。一年に二、三回ほどゴキブリが姿を現わします。ゴキジェットはその為だけに、常に手が届く範囲に置いてあります。決してしょっちゅうゴキブリが出るから置いてある訳では無いのです。そこら辺は、君にはキチンと理解しておいて欲しい。


 このちゃぶ台で私はご飯を食べているし、本を読んだり、時々レポートを書いたりしています。もちろん、小説もここで書いています。いわば、ここが私の最前線キャンプ地なのです。何もかもがここから始まりますし、大抵の物事はここで終わりを迎えます。この前、私が書いた小説を読んでもらったけど、感想はいかほどの物であったのでしょうか。とても気になるのだけど、未だに恥ずかしいし、何となく腹立だしいので君とは口を利いていません。間違えました。何となくではなく、腹を立てているのです。


 だからこうして、普段ならコツコツと小説を書いている時間を、こんな随筆というものにあてているのです。手紙ではありません。敢えていうのなら、手紙という形をとった私の随筆なのです。だって、手紙って普通、何か伝えたい事があって、それを誰かに読んでもらう為に書くものだから。少なくとも、こうして手を動かしながら、お気に入りの万年筆でコツコツ、サラサラとアンニュイにしたためる文章を誰かに読んでもらう予定は全然ありません。ア ン ニ ュ イ 。上手く書けた。


 今は夜が一番深い時間で、目覚まし時計は四時二十分くらいを指しています。部屋の電気とテレビはもちろん消して、眠気さえ訪れればすぐに眠れる状態のまま原稿用紙を広げ、電気スタンド(緑色の結構ごっつい代物です。父からもらいました)の懐かしいボンヤリとしたオレンジ色の下、ほとんど思うがままに書いているのです。はっきり言ってしまうと、この空間を統べている全知全能の神は私です。私が「エッセイを書きたい」と思えば書けばいいですし、「何だかぶり大根が食べたい」と思ったらやにわに立ち上がり、24時間やっているスーパーへ買い物へ行って鍋を火に掛けグツグツと作り始めても全然構わないのです。何とかのテリーヌとか、煮こごりとかでも同様です。テ リ ー ヌ 。上手く書けた。私はカタカナを書くのが上手い。でも私はテリーヌも煮こごりも好きではありません。まず名前が気にくわない。テリーヌという素敵な名が付くからには、もっとテリーヌらしき佇まいがあるべきだと私は思います。精神分裂症の人が描いた焼豚みたいなのがペタリと横たわっているような外見ごときで、「テリーヌ」などと名乗って欲しくはないのです。煮こごりも同様に、「こごり」が食欲をそそる語感とは言い難い。心が狭いですか? さっきも言ったけど、いや書いたけど、ここの空間では私は神なのです。王なのです。それはこの原稿用紙の上も同様に、私が目にするもの、意識するものありとあらゆる森羅万象、定義し規定され存在する事を許されたものは、私の脳を通過しこのペンを握る右手に伝わった電気信号ただの一握りの事象に過ぎないのです。ふふん。煙に巻いてやった。ゴホンゴホン。おっと、これは自爆かな。




 私の事を知ってもらいたい、って強く思う。




 これが、時計の秒針がてっぺんからてっぺんまでひと回りするのを眺めていて思い付いた、今の私の正直な気持ちです。何だかラブレターの冒頭みたいで小っ恥ずかしいですね。私が恋する中高生あたりの乙女だったら絵になるのだろうけど、もう大学二回生だし、多少の酸いも甘いも嚼み分けてしまったからね。だらしのないスウェットを上下着て、高校生の頃から着ていたカーディガンを羽織って、スッピンで書いているのです。スウェットはもうお尻の部分が擦り切れて、たいそう気の毒な感じにボロボロです。しかも時々おっさんみたいに鼻を噛んでます。その時は女子力という言葉の根幹を否定するかのような力強い音がします。


 話が逸れた。

 残念ながらそうしたピュアーでフレッシュかつバージンな女子が意味合いでの「知ってもらいたい欲」ではないようです。頬を赤らめながら「あたしの趣味は少し色褪せた青いバルコニーを遠くから眺める事で……」などという類ではないのです。じゃあ、どうして私は、私の事を知って欲しいと思うのだろう? いつもこの時間帯に、私は一人であることに喜びを感じ、孤独を友とし、誰かにこの気持ちを知ってほしいと強く思うのです。伝えたいと心から思うのです。何故なのだろう。もしかしたら、それは小説を書く理由を探すのと同じなのかも知れません。私の事を知ってほしいという事は、私が小説を書く意味を探求するのとほとんど同義なのです。


 この間、あなたは私に酷い事を言いました。

 普段ノンビリと、マイペースでやっているあなたの癖に、突然文学についての悪口をよりにもよって、唐突に、意気揚々と、当てつけのように、解き放つように、堰を切ったかのように、おもむろに、軽妙洒脱にして軽快に、思いの内を打ち明けるかのように、滔々と、ありおりはべり、いまそかり、この私に対して喋りやがりました。私はたいそう、とても、忌まわしく、おぞましく不快な気分になりました。あの場で私が泣かなかったのは(泣かなかったよね?)、単にあなたがラッキーだったからです。きっとお腹が空いていなくて、もっと体調が万全であれば、私はあなたをぶん殴っていたでしょう。それくらいに腹が立ちました。あまりにも視野が狭過ぎて、かつ思い込みの激しいあなたの世界に、正直吐き気すら覚えていたのです。


 でも、あなたは私の小説を読む、と言ってくれました。

 それで私は、本来ならあなたの家に置いて帰る筈だった糞重たい本がたっぷりと入った紙袋をひいこら言いながら、また馬鹿みたいに持って帰って、玄関に投げ出すも早々に、自宅でファイリングしてある自作の小説を探したのです。結構必死で。あなたのような文学に対する偏見を持っている人に、何故そんなにやっきになって小説を読んでもらいたいと思ったのか、今となっては自分でも理解ができません。「おめーみたいなアンポンタンに読ませる小説は無ぇ!」って、あなたの部屋に唾でもひと吐きして、二度と来ねえよ、と啖呵を切って帰れば良かったのです。はたまた、あ、ヒガシダ君、小説嫌いなんだーって取り繕って、だよねー、長すぎるよねわっかるぅーって、上辺の友達関係をずっと続けて、私は数学を教えてもらって必修の単位を取ったり、もしかしたらその先の進展? 的な? 何かにホフゥと桃色な溜息でもつけばよかったのです。その可能性はゼロではない。零ではないという事は、時と場合によっては百である事と同義の場合もあるのです。そういうのは、分かってくれますか? 分からなかったらずっと考えていてくださいね。


 でも私は、幸か不幸かちゃんとしっかり怒って、一生懸命、あなたに読んでもらおうと自分の小説を探しました。だいたい短編だと十か二十はあったと思います。思います、と言うのは、あなたにも言った通り、短編として終わらせていいものかどうか、という不思議な思いをもった小説が何本かあったからです。でも、涙を飲んで ──いや本当に泣いた訳ではないけれど、あなたに読んでもらおうとする候補作を五か六に絞って考えました。その時の私はルンルンでした。ハッピーでした。何故かは分かりません。あんなにあんなに腹を立てて、二度と顔も見たくないくらいの勢いで怒ったにも関わらずです。チョロイにも程がありませんか? 自分でも驚きです。でも、もっと驚いたのが、その候補作を読み返すと、どれもこれもが、相当な勢いでつまらなかった事なのです。驚愕しました。どうして私はこんな、秋空に聳え立つ馬糞みたいな小説を書いていたのだろう。結構、割と真剣に頭を抱えました。書いている時は名作だと思ったし、書き終わった時も確かに「文豪、爆誕」などと一種異様な高揚感があったのです。


 でも、あなたに読んでもらうという事を頭の片隅に入れて選定する場合、頭の中のもう一人の私が次々とダメ出しをするのです。

「ヒガシダ君はこの主人公の気持ちを果たして理解してくれるだろうか?」

「何故これを書いたのか、と問われた時に、私は何と答えればいいのだろうか」

「このストーリー展開はご都合主義過ぎる、と言われたら、私は拳を使わずに語る事ができるのだろうか?」

 そうした事を端々から考えるに、私は図らずも、小説、という事について考えました。文学、という事についても考える事になりました。そして、今まで私が書いてきた物に対して、どういう姿勢で向き合っていたのかも。


 それに気付いたのは、言い合いになった翌朝、ほとんど徹夜で選んだ「クロスロード」をあなたの郵便受けに突っ込んだ時でした。それはとても気持ちがいい朝でした。私は確かに、ヒガシダ、これでも喰らえ、震えろ、と思いながら、茶封筒を未だあなたが惰眠を貪っているであろう、あの薄汚いアパートの郵便受けに投函したのです。でも、それが中に入って手も指も届かない場所に収まった瞬間、恐ろしい程の不安に駆られました。


 私は何をしているのだろう、という事がまず最初にやって来た思いでした。何で私は自分の小説を、こんなにもあなたに読んでほしいと思ったのだろう、一切文学にも小説にも興味がないと公言している人に、こんなにも躍起になって読ませようとしているのだろう、と。大変な自己嫌悪に陥りました。あなたは言っていました。豚の内臓を無理矢理顔に擦り付けられているみたいだ、と。私はその言葉をよく覚えています。よくそんな汚らしい表現を思い付けるものだと感心したのです。とすれば、あの投函した時の私は明らかにその加害者でした。あの優しいヒガシダ君に甘えて、無理矢理、豚の内臓を「ホラクエ! ニクウマイ! クサリカケ!」というどこかの原住民みたいな真似を、今まさに私がしでかしたような気分になったのです。


 私は急に恥ずかしくなりました。よく考えてみたら、これをあなたが読んで面白い、というよりも、意味が分からないと言う方が絶対可能性としては高いのです。何故舞台がアメリカなの? 1980年代のアメリカにする意味は? 普通主婦の自宅で逢瀬とか重ねる? 逢瀬って言い方古くない? セックスのシーンは何故淡白にカットしてあるの? 場所関係が曖昧じゃない? で、総体としてスギモトはこれで何が言いたい訳? じゃあそれを口で言えばいいんじゃない? 何故小説にしたの? 主旨をまとめた方が早くない? (だんだんとまた腹が立ってきました) その時、私が思った事は簡潔にしてシンプルにして明確でした。




 うるせえ!

 うるせえよヒガシダ!

 




 それで、しばらくあなたと口を利かない事に決めたのです。とても個人的で、一方的な怨恨である事は自分でも重々承知しています。でも、あの時はそうでもしないと、とても辛かったのです。

 と言うのも、私は自分がどういう気持ちで、自分が書く小説に向かっていたのか、気付いてしまったからでした。端的に書いてしまうと、私は小説を書く自分が好きなだけだったのです。日々忙しい講義やら、レポート書きやら、飲み会やら、雑用やらをこなして、ふう頑張って一日を乗り切った、そうして落ち着いた時に、夜、真っ白い原稿用紙に向かって万年筆を握り、コツコツと書く自分が好きなだけだったのです。だから何やかや理由を付けてパソコンを使わなかったのです。どうしても書きたいテーマだとか、深い内省だとか、このいたたまれない気持ちの感情を残しておきたいとか、そういうのは一切ありませんでした。本当は、あった筈なのです。そうでなければ、小説を書くなどという面倒くさい表現方法を用いようなどとは思わない。でもそれは幻でした。私が書こうとしていた事は、昔の文豪達がひたすら必死で残した作品の痕跡の一部を引き延ばし、水で薄め、おちょこのような小さな物で違う入れ物に移しているだけの作業でした。何と無為な事でしょう。私は自分でこしらえたと都合よく思い込んで、運良く拾った金魚鉢に揺れる水草を眺めて悦に入っていただけなのです。私がコツコツとモノを書く行為は、単なる文学諸先輩方の真似っこでしかなかった。いわば、コスプレだったのです。それに気付かされたのは、元を辿ればヒガシダの……呼び捨てにしちゃった。まあいいや、ヒガシダの謂れのない誹謗中傷であったのです。あなたが取ってつけた様に私の小説を読むと言って、読んでもらう為に別の視点で読み返した事が、私にとっては自分自身を見つめ直す大きなきっかけであったという訳です。何がどう作用するか、本当に神のみぞ知る、というところですね。


 クロスロードは唯一、外国が舞台の異色な小説でした。不倫を題材にしたのも初です。だからこそ、自分の中にひっそりとあった書きたい事、つまり、自分自身の一部を文章に変換し、物語に組み込む事が出来たような気がしました。私はそれを、ヒガシダ君に読んでもらおうと選んだのです。それに気付いたのは、あなたのアパートの糞しょうもないポストに投函して、指を離れた瞬間でした。私の一部がふくまれた小説を、よりによってあなたに託したのです。? 分からないでしょうね。あなたはそういう奴です。知ってます。でもずっと考えてください。ずっとずっと考えてください。

 気が付いたら、馬鹿みたいに次々と涙が出ていました。それは悔し涙に似ていたような気もします。何てみっともない真似をさせてくれたんだヒガシダ、って大声を出して、腹いせにドアの一つでも蹴っ飛ばしてやろうかと思ったくらいです。でも、それは出来ませんでした。あまりに自分を傷付けるような気がしたからです。それでその日は自分の部屋に戻って、一日中泣いて過ごしました。講義なんかにとても出席できる訳がない。


 そうして、私は三日間ほど引き篭もりました。金、土曜日と講義をサボって、日曜日が普通の休みだったからです。講義を休んだのは初めてでしたし、人と口を利かずにこれ程長く一人で居た事も初めてでした。思ったよりもだいぶダメージは大きかった。食事を適当に作って食べて、普段は見ないテレビなどを眺めたりはしましたが、ろくに風呂も入らず、ただ虚ろに時間を過ごしました。自分を見つめ直す時間であったのかも知れません。そこに空気も読まず電話を掛けてきたのが、同じゼミのハギノでした。






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