第一話 異世界転移すればアイドルだって辞められるってさ
異世界で最も素晴らしいことは、ここでは誰も自分を知らないということだ。
それが異世界転移した国民的アイドル、大井マサトの率直な感想だった。
街中を歩いているだけで視線が集まるような世界では、とてもじゃないがまともな生活なんておくることなどできるはずもない。
視線だけではない。アイドルというのはイメージの商売だ。
体重も含めた管理は厳しいものだったし、スケジュールは分刻み、ろくに休みもありゃしない。
そもそもの異世界転移を決断したきっかけも、そんなアイドルが重荷になりすぎたからだった。
「うわー、大井マサトだ! 隣に住んでたの、大井マサトだったのか!」
あの日、夜遅くにようやくマンションに帰り着いた時、彼の耳にそんな声が耳に入ってきた。
隣人とすれ違った際、向こうがこちらに気が付いてしまったのだ。
油断もあった。もう部屋の前だからとマスクを外してしまっていた。
それがよくなかった。
応援ありがとうございます、と最高の笑顔を向けたままドアを閉める。
そしてドアが閉まると同時に、彼の顔から表情が消え、そのままスマートフォンを取り出して電話をかける。
「すいません、引っ越しの手配をお願いします。ええ、隣人に顔を見られてしまいました。あの様子だと、広まるまで2、3日程度という感じでしょうか。はい、いつもどおりこちらの準備は大丈夫です。もう服をまとめるだけです。では、お手数をおかけします」
要件だけ告げて電話を切り、暗い部屋の中を見渡した。
彼の言葉のとおり、その部屋には生活の痕跡がほとんどない。
あるのは大きなベッドと大きなテレビと大きな時計、そしていくつかの衣装ラックとダンボールの山。
机も棚もなく、キッチンも使った痕跡はない。まるでこの部屋自体が、引っ越してきた直後のようであった。
実際そうなのだ。
「ここは5ヶ月くらいか。まあ、持った方だったな」
5ヶ月前ここに引っ越して来てから、衣装といくつかの台本を出しただけで、あとは引っ越し後のままであった。
大井マサトはいつの頃からか、短いスパンで引っ越しを繰り返す生活サイクルで生きるようになっていた。
周囲の人間に住居がバレると、それに合わせてすぐにどこか他の部屋へと移り住むのだ。
そもそもほとんど家にいる時間もないため、自宅といっても実質的には物置と寝るだけの場所に過ぎないのだが、それでも、マサトはその周囲が煩くなることを好まなかった。
部屋着に着替え、ベッドに横になる。
このベッドで寝るのも今日が最後だろう。
ベッドとテレビは引っ越しの際には置いていく、使い捨ての消耗品だ。また次の部屋に合わせて買えばいい。どうせ金なら捨てるほどある。
ようやく見慣れてきた天井を見ながら、彼はふと、以前手に入れた砂時計のことを思い出した。
彼がそれを手に入れたのは、ある会員制のバーでのことだった。
その日は以前仕事をした映画監督との酒の席であり、半分は営業仕事のようなものであったのだが、それでも話の合う相手だったし、落ち着いた雰囲気でゆっくりできるというだけでずいぶんと気が楽だったものだ。
そこでその監督がくれたのが、好きな夢を見られるという銀色の砂時計だった。
監督はその砂時計を地球以外の世界からやってきたものと説明してくれた。ある映画の撮影で使う小道具を集めていた際に手に入れたものらしい。
半信半疑だったが、マサトはそれを使ってみることにしたのである。
そしてその夜、彼は夢を見た。
夢の中に現れたのは巨大な竜の影。
その影はマサトを見下ろしながらこう語りかけてきた。
「ほう、この瞑想域までたどり着くとは、なるほど、おぬしにはどうやら才能があるらしいな」
才能という言葉にマサトは少し顔をしかめる。
そのことに相手も気が付いたらしい。
「おや、なにが気に触ったか?」
「才能という言葉で、僕を語らないでくれ」
どうせこれは夢の中だ。
そんな気持ちが、マサトに本音を語らせた。こんな夢の中の影にまで気を使う必要などあるまい。
「なるほど、おぬしはこれまで人に恵まれなかったようだな。ならば今の世界を飛び出して、その才能を解き放って生きてみたいとは思わないか?」
そう言われても、彼にはなんと答えていいのかわからなかった。
才能。
大井マサトという人間が子供の頃から散々聞かされれてきた言葉であり、実際、彼は才能に満ち溢れていた。
アイドルになる前も、アイドルになってからも、彼はあらゆることをこなし、そして乗り越えてきたのである。
そのたびに、彼に対する期待は高まり、そして重荷となった。
むしろその才能こそが、今のこの状況を作ってしまっているのだ。
「才能などいらない。僕はただ、自由に生きられればそれでいい」
吐き捨てるように、彼は夢の中の竜にそう答える。
それを聞いた影は、どうやら少し苦笑いをしたらしい。
「……フム、そういう望みの形であるのか。よかろう。それならばこそ、我と取引をしようではないか。なに、そう難しい話ではない。おぬしはとある異世界に行き、ただそこで生活をしながら定期的に我に情報を送ってくれるだけでいい。それならおぬしにとっても悪い話ではあるまい」
「異世界?」
夢の中とはいえ、あまりにも突拍子のないその言葉に流石の彼も驚きを隠せなかった。しばし考え、言葉を探す。
そうして出てきたのは、今の彼を縛り付けているもっとも根源的なものへの反発。
「その異世界では、誰も僕のことを知らないのか?」
「もちろん。そこではおぬしのことなど誰も知らないし気にもしない。そこではおぬしはただの一人の男でしかない。そういう世界を約束しよう」
「一人の男か……」
その響きが、彼の心を鷲掴みにした。
そうか、僕は一人の男になりたかったんだ。
それならば、これが夢でもなんでもいい。
「わかった。その話を飲もう。僕はその世界に行こうじゃないか」
「フム、では取引は成立ということだな。ならば、我からいくつかの贈り物を与えよう。もちろん、これが取引である以上、我にも利が必要なのだ。わかるな? おぬしに簡単に死なれては我としても困るということだ」
竜の影の言葉にマサトもうなずく。
すると、影の中から一つの白く小さな四角い板が現れる。板の一面だけが黒い鏡面となっており、それはまるで、現代のスマートフォンのようであった。
「異世界に行く夢にしては、道具はずいぶんと現代的なんだな」
「おぬしもそのほうが使いやすかろう。使い方もおぬしの知っている通りのものだ。もっとも、次元ごとに世界の流れが違うのでな、電話としての機能とインターネットは使えんぞ」
「いいさ。そのほうが気が楽だ」
その板を手にとって鏡面を押すと、その表面にその竜の顔と角をシンボル化したボタンが映し出される。
「ところで聞き忘れていたのだが、あなたの名前はなんだ?」
「名前か、ずいぶんと懐かしい響きだ。誰もそれを呼ぶことがないからな。今は世界は我を『B』と呼んでいるらしい」
「『B』か……わかった」
そう言うと、影が少しだけ笑った気がした。
「それを押せば、我々の契約は完了する」
「ならばこれで、契約完了ということだ」
そうして大井マサトはそのボタンを押し、異世界の人間となったのである。
それから3ヶ月。
翻訳機能や適切な情報の提示など、与えられたあのスマートフォンもどきの中にあった能力がチートだったこともあるが、この世界で異常に早く適応できたのは、なにより彼のアイドルとしての経験があったからだ。
今の時代、アイドルはいかなる状況にも対応していかなければいけない。
そして、それをあの世界でもっとも体現した存在が、大井マサトだったのである。
立ち振舞や剣の扱いは時代劇などの映画の撮影で鍛えたものだったし、現実ではありえない怪物との戦いも、ジャングルや未開地ロケで散々鍛えたサバイバル能力で乗り切った。
高い料理スキルもその他自給自足な村の生活も、今どきのアイドルなら持っていて当然の技能である。
そんな日々だったからこそ彼は摩耗してしまったのだが、皮肉にも、ここではそれらの日々が無駄でなかったことを実感するばかりである。
今日も彼は村に攻めてきたゴブリンを蹴散らし、すっかり村のヒーロー的存在になっていた。
有名になるのは彼としてはいささか問題ではあったのだが、こうして顔の見える範囲でちやほやされることは、むしろデビュー当初のことを思い起こさせて悪い気分ではない。
言葉の問題もどうなるかと思ったが、どうやらあの竜の影の魔法の力によってか、まったく気になることがなく通じている。
たまにこちらの概念を向こうが持ち合わせていないときには齟齬が出てしまうこともあるが、それくらいのことは言葉が通じていた日本でもよくあることだった。
そういうわけで、彼にとってこの村での暮らしはまさに理想そのものだったと言える。
彼の他にもいわゆる冒険者を志す若者たちもいて、彼はそんな若者たちとパーティを組んで、村の外の怪物などを倒しては日々を過ごしているのである。
もちろん、そんな仲間たちは彼が本当は異世界の人間であることを知らない。
村の人々もである。
そんな事がバレたら今の生活に翳りが出るのは明白だったし、あの竜もその点については不穏なことをいっていた。
他の転移者がお前の存在を知ると、間違いなく、余計な問題を持ってくることであるだろうと。
もちろん、言われるまでもなく彼もそれはわかっていることだ。
こんな異世界まで来て、彼のことを知っている人間の相手などしたくない。
せっかくすべてがゼロからの再構築となったのだ。過去はもう捨ててきた。そのための異世界転移だ。
しかし、そんな彼の生活を脅かす、ある情報が流れてきていた。
「最近このあたりに現れた魔族が、ゴブリンたちを従えて大規模な侵攻を企てているらしい」
それだけならいつもの冒険の種になるくらいですんだのだが、その中に一つ、不穏な情報があったのだ。
その魔族を見たという村人の話では、そいつはなにか奇妙な言語を話し、不思議な道具で周囲の魔物を従えさせているというのだ。
奇妙な言語の時点で彼には嫌な予感がしたのだが、今日、その魔族の配下と思しきゴブリンを退治した時、予感は現実のものとなった。
ゴブリンの懐から出てきたのは、彼もよく知るいわゆるエナジードリンクの缶だったのだ。
しかも『怪物の力』でさえなく、ファンタジー感ほぼゼロの、赤い牛の描かれたものである。ご丁寧に、製造者名などが日本語で書かれている。
つまり、その魔族というのは日本人である可能性が高いということだ。
彼の異世界暮らしは、この時から狂い始めていった。
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