70 離城の少年国王 その1


 停泊を告げる銅鑼どらの音が鳴り響く。


 甲板のあちらこちらで水夫達の掛け声が上がり、いかりを下ろす鎖の音が龍翔の耳に届いた。


 水夫達が十人がかりで下船するための大きなきざはしを引き出している。下船の準備が整うまでは、今少し時間がかかりそうだ。


 龍翔は隣に立つ妹の様子をそっとうかがった。


 萄芭が差しかける傘から垂れる紗を通して、初華が真っ直ぐに汜涵しかんの離城を見つめているのが見える。


 愛らしい面輪は、緊張のためか表情が硬い。


 初華の視線を追うように龍翔も離城に目を向けた。


 瀁淀ようでんが「龍華国の皆様をおもてなしできるような城ではございません」と告げていた通り、汜涵しかんの離城は「城」というよりも「とりで」だった。


 川べりに建てられた石造りの建物は、高さこそ三階建てで大きいが、武骨な作りで、壁面にかなり古めかしい彫刻が施されているものの、手入れする者がいないのか、風化して欠けている箇所も多い。


 華揺河かようがわの船の通行を監視するためなのだろう、三階の部分に、大きな露台が張り出している。そこに。


 鎧をまとった老武官と青年武官に両脇を守られて、きらびやかな衣に身を包んだひとりの少年が歩み出てくる。


 少年の姿を見とめた途端、真っ先に初華が傘の下でひざまずいた。


 一拍おいて、龍翔と玲泉も呼吸を合わせてひざまずく。後ろの季白達もならったきぬずれの音が耳に届く。


「初華姫様。差し添え人の方々。ようこそ晟藍国へおいでくださいました。感謝の念にたえません。どうかおもてをお上げください」


 少年らしい高く伸びやかな声が響く。


「藍圭陛下。ふたたびお会いできて嬉しゅうございます。このたび、『花降り婚』の盟約に従いまいりました龍華国皇女、初華でございます。幾久しく陛下のおそばにお仕えさせてくださいませ」


 初華がこうべを下げたまま恭しく口上を述べる。


 先ほどの瀁淀への対応とは、天と地ほどの差だ。


 龍翔達の船のそばに停泊し、こちらの様子をうかがっている瀁淀は、悔しさに歯噛はがみしているに違いない。


 誰の目にも、龍華国は瀁淀ではなく藍圭を重んじていると一目瞭然なのだから。


 だが、感極まって潤み帯びた初華の声が、決して演技などでないことは、兄の龍翔にはわかる。


 こうして、藍圭の無事な姿を見るまで、人知れず不安に震え、胸を痛めていたに違いない。


「すぐに皆様をご案内する支度を整えます。どうぞ楽になさって、少しだけお待ちください」


 藍圭が露台から引っ込む気配がする。両脇の護衛達が纏う鎧の金属音が完全に聞こえなくなってから、龍翔はゆっくりと顔を上げた。


 龍翔と玲泉が立ち上がっても、初華はまだ、傘の下でひざまずいたままだ。初華が立ち上がらないので、季白達もこうべを垂れ続けている。


「初華」

 龍翔はそっと妹へ手を差し伸べた。


「どうした? 喜びのあまり立てぬのなら、わたしが抱き上げて運んでやろうか?」


 あえておどけた口調で告げると、ようやく面輪を上げた初華が「まあっ」と笑い声を立てた。


「いくらお兄様でも、それはご遠慮いたしますわ。藍圭陛下が快く思われないでしょうから」


 確かに、幼い藍圭には、初華を抱き上げることなど逆立ちしても不可能だ。そもそも、身長も初華の胸くらいまでしかないだろう。


 龍翔の手を取り、初華がすっくと立ち上がる。つないだままの細くたおやかな指先にこもる力は、すがるように強い。


「本当に、ご無事でようございました……」


 龍翔にだけ聞こえる程度の小さな囁きは、隠しきれぬ震えを帯びていた。


 実際に藍圭の姿をその目で見るまで、初華が胸の内でどれほど心配していたのか嫌でも伝わってきて、龍翔は安心させるようにつないだ手に力をこめる。


「ああ。おぬしの言う通り、本当によかった。そして、我らが来たからにはもう、藍圭陛下に危険が及ぶような事態は、決して起こさせぬ」


「龍翔殿下がおっしゃる通りでございます。お可愛らしい藍圭陛下のお顔を曇らせるような事態は、我らが許しませぬ。初華姫様もどうか、輝くばかりの笑顔をお見せください。藍圭陛下も、それを一番お喜びになられることでしょう」


 玲泉も見惚みほれるような麗しい笑顔で龍翔の後に続く。


「そうですわね。玲泉様がおっしゃる通りですわ。着いたばかりの花嫁が沈んだ顔をしていては、藍圭陛下のお心も晴れませんわね」


 大きく頷いた初華が、紗の外にまで光がこぼれ出るような明るい笑顔を浮かべる。


「玲泉様も、たまにはよいことをおっしゃいますわね」


「おや。わたしはいつもよいことを言っているつもりですが」


「あら。そこに関しては、わたくしと玲泉様の認識に、大きな齟齬そごがあるようですわ」


 初華と玲泉の軽口の応酬に、張り詰めていた空気がわずかにやわらいだ。

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