39 お兄様はどちらが幸せだと思われますか? その2


「わたしの答えならば、決まっている」


 龍翔は静かに言葉を紡ぐ。


「苦しみとともにある喜びを選ぼう。真実の痛みの知らぬまま、あたたかな部屋で微睡まどろんでいるよりも、冬の凍てつく寒さの中で景色の美しさを愛でるほうが性に合う」


「そう、ですわね……。お兄様のご気性ならば、そうおっしゃると思っておりました」


 初華がまぶしげに目を細める。


「だが初華、急にどうしたのだ?」


 なぜ、今、初華がこのような問いをしたのか、龍翔にはさっぱりわからない。


 そもそも既知の苦しみよりも、無知の安楽を選ぶ龍翔であるならば、龍翔は今、第二皇子の地位にいないだろう。さっさと皇位争いから離脱して、第一皇子派、第二皇子派に目をつけられぬよう、世俗から離れ、僧にでもなって僧院にこもって生き長らえる道を選んでいる。


 この龍華国を変えたいという願いなど、抱きもせずに。


 龍翔と志を同じくする初華なら、龍翔がどちらを選ぶかなど、とうの昔に知っているはずだ。


 龍翔の問いに、初華が困ったような、戸惑っているような、なんとも言えない微妙な表情になる。

 その後ろでは、安理が吹き出すのをこらえるかのように、そっぽを向いてぷるぷる肩を震わせていた。


「初華?」

 表情の真意を問おうとして。


「ん、ぅ……?」


 衝立ついたての向こうから明珠の寝ぼけた声が聞こえ、龍翔は耳をそばだてた。

 もぞもぞと明珠が動き出す衣擦れの音がしたかと思うと。


「すみませんっ、龍翔様! 私、寝こけてしまって……っ!」


 あわてた様子で衝立のこちら側に顔を出した明珠が、初華と安理に気づいて顔を強張らせる。

 転がるように駆けてきたかと思うと、明珠は初華の前で身を二つに折るようにして頭を下げる。


「初華姫様! 申し訳ございませんでした! 私がいたらぬせいでお茶会を乱してしまいまして……っ!」


 うなじまで見えるほど深く頭を下げて詫びる明珠に、初華が驚いた様子で口を開く。


「まあ、明順ったら何を言うの? あなたが謝ることなんて、まったくなくってよ。むしろ、わたくしはあなたの真っ直ぐな心根が嬉しかったくらいなのに」


「ですが……」

 納得がいかぬ様子の明珠に、初華が「頭を上げてちょうだい」と頼む。


 おずおずと身を起こした明珠の両頬を、一歩踏み出した初華が両手で包んだ。驚きに目を見張った明珠の頬が、すぐさま薄紅色に色づく。


「は、初華姫様っ!?」

 すっとんきょうな声を上げる明珠に、初華がにっこりと微笑む。


「あなたが、わたくしの婚礼を言祝ことほいでくれたのも、藍圭様を思って泣いてくれたのも、わたくしはとても嬉しかったの。だから、これ以上謝るのは、わたくしが許さなくてよ?」


「で、ですが……」

「「ですが」もなし」

「あ、あう……」


 初華に先回りして封じられた明珠が、困り果てた顔であわあわと口を開閉する。その様子が愛らしくて、龍翔は思わず小さく吹き出した。


「明順。初華本人が怒っていないと言っているのだ。それでよかろう?」

 笑んだ顔で助け舟を出すと、


「初華姫様と龍翔様がそうおっしゃってくださるのでしたら……」


 と、ようやく明珠が不承不承、頷いた。初華の手に包まれたままの面輪は、まだ紅いままだ。


「それより、わたくしこそごめんなさいね。甲板に呼んだばかりに、あなたに嫌な思いをさせてしまって……」


 初華が申し訳なさそうに明珠に詫びる。

 が、明珠はきょとんと目をまたたくと、あわてたようにぶんぶんとかぶりを振った。あまりの勢いに初華の手が外れる。


「そんなっ! 初華姫様こそ何をおっしゃるんですか!? 初華姫様が謝られる必要など、まったくございません! 玲泉様に笑われたのも、玲泉様の従者さん達に呆れられたのも、すべては私が不出来なせいで……っ」


「不出来?」

 初華が不思議そうに小首をかしげる。


 龍翔が説明するより早く口を開いたのは安理だった。


「あー、初華姫サマ? 明順チャンはこの通り、どうにも機微にうといんスよ……。好意にも悪意にも……ね?」


 安理の言葉に、なぜか初華がすこぶる納得した様子で頷く。


「つまり、ある意味、似た者同士というわけね」


 謎の言葉を呟いた初華が、優しい笑みを浮かべて明珠を見つめる。


「明順。わたくしは、あなたとおしゃべりができて、とても楽しかったわ。だから、己を責めないでちょうだい。わたくしの侍女達も、可愛らしいと、あなたのことをすっかり気に入るほどだったのよ? 今日あなたを甲板に呼んだのは、玲泉様の真意を確かめるためと……。あなたを、わたくしの侍女達に顔見せする目的もあったの」


「わ、私を初華姫様の侍女の方々に?」


 明珠がわけがわからぬという顔をする。頷いた初華が、にこやかな笑顔のまま、龍翔を見上げる。


「お兄様、つかぬことをうかがいますが、二日後の淡閲たんえつ総督の表敬訪問の際、明珠をどうするつもりでいらっしゃるのですか?」


 初華に問われ、龍翔は思わず黙り込む。


 二日後に到着予定の淡閲の街で、龍翔達は総督の訪問を受けることになっている。淡閲では、今ごろ大急ぎで準備が進められていることだろう。


 淡閲たんえつは龍華国の南方地域では最大の街であり、晟藍国せいらんこくから持ち込まれた品々の集積地でもある豊かな商業都市だ。


 一日も早く晟藍国へ着くため、船員を交代しながら、夜間も休みなく航行しているが、人は休めば回復しても、物資ばかりは補給せねばどうにもならない。

 これだけ大きく、また皇女を筆頭とした貴人が乗る船だと、衣装や食料など、必要な物品もかなりの数と量にのぼる。交代用の船員も乗っているため、なおさらだ。


 それらの補給を行うのが淡閲に寄港する第一の目的だが、第二の目的として、王都から離れた豊かな街を皇族が訪れることで、民に皇家の権威を印象づけ、総督の治世を確認する意図もある。


 荷を補給するだけで二刻(約四時間)以上はかかるため、その間に淡閲の総督が船へ初華を表敬訪問する予定になっていた。


 初華の問いに、龍翔は己の眉がぎゅっ、と寄ったのを感じる。


 総督の訪問目的は「『花降り婚』で晟藍国へと嫁ぐ皇女を言祝ことほぐ」ためであるため、差し添え人である龍翔と玲泉も当然、同席せねばならない。


 玲泉が龍翔の目の届くところにいるため、滅多なことは起こらぬと思うが……。


 龍翔としては、叶うならば明珠を己の目の届く範囲においておきたいが、さすがに総督が来る席に明珠を連れていく真似はできない。

 季白と張宇、周康といった青年たちの間に、宮中で名の知られていない明珠が混ざれば、嫌でも目立つことだろう。


 それに、当日は総督が船へ来るだけではなく、淡閲の街に住む民も、滅多に訪れぬ皇族をひと目見ようと、港に押し掛けることだろう。それこそ、街の有力者から、一介の庶民まで、老若男女関係なしに。


 その中に、龍翔を害そうと企む者がいないとは、限らない。


 明順の正体を調べようなどと、たわけたことを画策する不埒ふら者が出てくる可能性がある以上、明順を不特定多数の目にふれさせるわけにはいかない。


 となれば、船室に残すほかないのだが。


「周康に託すしかあるまい……」


 答える声は我ながら苦い。


 第二皇子の両翼と呼ばれる季白と張宇を供から外すわけにはいかぬ。

 甲板に総督とその供達、そして船倉に荷運び人夫など、大勢の人間が出入りする寄港中は、龍翔の命を狙う輩にとって、絶好の機会でもある。


 深手を負わせたというものの、禁呪をかけた術死をいまだに捕らえられていない現在、季白と張宇が龍翔のそばを離れるはずがない。


 龍翔が要らぬと言っても、季白は決して受け入れぬだろう。むしろ、血相を変えて、龍翔が折れるまで延々と説得する姿がたやすく想像でき過ぎる。

 以前から、龍翔に過保護気味な季白だが、禁呪をかけられてからというもの、さらに過敏になっている気がする。


 多少、うっとうしいと思う時はあれ、季白の忠義の表れなのだ。無下にはできない。


 張宇も、龍翔が頼めば明珠の警護についてくれるだろうが……。


 駄目だ。張宇が今回の旅の最重要人物である初華や龍翔のそばにいないなど、「張宇がいるところにこそ、もっと大切な者がいる」と喧伝けんでんするに等しい。

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