30 たまには褒美も必要です? その3


 頬を包んだ手が、つい、うつむきそうになる明珠の顔を上に向かせる。


 あたたかく、柔らかな唇がふれたかと思うと、すぐに離れる。


 これだけでよいのかと疑問に思う間もなく、ふたたび唇が下りてきた。

 明珠は開けそうになったまぶたを、あわててぎゅっと閉じ直す。


 ふれては離れ、触れては離れと、まるで小鳥がついばむような軽いくちづけ。


 が、短いとはいえ、繰り返されるたびに、どんどん頬が熱くなる。頬にふれる龍翔の手より熱いほどだ。


 押し留めたいが、いつくちづけされるかわからないので、下手に口を開けることもできない。


 だが、このままでは恥ずかしくて気を失いそうだ。

 というか、いつ息をすればいいのかわからなくて、苦しいことこの上ない。窒息する。


 龍翔の胸板を押し返すと、ようやく、くちづけがやんだ。


 引き結んでいた唇をほどき、ぷはっと詰めていた息を吐き出す。と。


 不意に、ふたたび龍翔の面輪が下りてきた。まぶたを開けかけていた明珠は、あわてて固く目を閉じる。


「んぅ!?」


 息を整えようとした瞬間を狙ったようにふさがれ、くぐもった悲鳴が飛び出す。


 先ほどのように軽いくちづけかと思いきや、今度のくちづけは離れる気配がない。

 時間にすれば、十数える間もなかっただろう。だが、明珠には半刻かと思えるほどに長かった。


 ゆっくりと龍翔の唇が離れた途端。


 《気》と一緒に身体中の力も抜けたかのように、くたりと崩れ落ちそうになる。龍翔に抱き寄せられていなかったら、膝から落ちて、床に転がっていただろう。


 心臓が太鼓のように、ばくばくばくばく騒ぎ立てている。壊れてしまったら、いったいどうしてくれるのか。


「り、龍翔様、急にあんな……っ。ひどいです……っ!」


 思わず、じとっ、と龍翔を見上げて抗議すると、形良い眉が困り果てたように八の字を書いた。


「す、すまぬ……。ひさびさにお前にふれられたのだと思うと、たった一度で終わらせてしまうのがどうにも惜しく……。その……、嫌だったか?」


 不安をたたえた黒曜石の瞳でのぞきこまれ、言葉に詰まる。

 嫌かと問われたら、嫌ではない。嫌ではないが……。


「いつ息をしたらよいかわからなくて、窒息するかと思いました!」


 頬をふくらませて訴えると、ふはっ、と龍翔が吹き出した。


「そうか。それはすまなかったな」

 頬にふれていた手が離れ、あやすように頭をぽふぽふと撫でる。


「お前に苦しい思いをさせる気はなかったのだが……。つい、悪戯心がわいてしまった。すまぬ」


 素直に頭を下げられては、怒り続けることなど、明珠には不可能だ。


「で、では《気》も得られましたし、もうよろしいでしょう!? いい加減、お放し――」


 明珠の声をさえぎるかのように、船室の外から、銅鑼どらを叩く大きな音が響いてくる。船内すべてに行き渡らせるかのような大きな音だ。


 何事かと、思わず身をこわばらせたが、龍翔は落ち着いたものだ。


 銅鑼の余韻よいんが消える間もなく、もう一度、大きな音が響く。


「ああ、出航の合図だな」


 耳に心地よい龍翔の声が、銅鑼が反響する余韻に溶け込む。


「出航の時は特に揺れる。少し待て」

「え?」


 明珠が聞き返すと同時に、船がぐらりと揺れた。


「ひゃっ!?」


 龍翔の膝の上の明珠は、予想していなかった揺れに掴まるものを探して、思わず龍翔の胸元にしがみつく。ふわり、と香の匂いが強く薫った。


「すみませ――」

「よい」


 明珠はあわてて身を離そうとしたが、支えるように背中に回された腕は緩まない。


「銅鑼が二回鳴るのは、出航の合図だ。まあ、今回の船旅は、急ぐゆえ夜も航行する。停泊することは少ないが……。慣れぬうちは転ばぬよう、銅鑼の音が聞こえたら、手近なものに掴まるとよい。ああ」


 龍翔がくすりと悪戯っぽい笑みをこぼす。


「もちろん、わたしでもよいぞ?」


「そんなこと、いたしません! 今は、たまたま……っ」

「ああ、偶然だとわかっている。だが」


 龍翔の声が、ふと甘く、熱をはらむ。


「お前からわたしの胸に飛び込んでくれたのかと思うと、放したくないと惑わされそうになる……」


 龍翔の低い囁きは、明珠の耳に届く前に、儚く消える。


「ああ、ほら」

 吐息交じりに呟いた龍翔が、顔を上げる。


「もう、夕暮れだな。窓から、夕暮れに照らされた王都が見えるぞ」


 ようやく腕を緩めてくれた龍翔の膝の上から、明珠はそそくさと飛び下りる。


「こちらへおいで」

 と、龍翔に手を引かれるまま、小窓に近づき。


「わぁ……っ!」


 窓からの景色に、明珠は思わず感嘆の声を上げた。


 開けた港からは、その向こうに広がる王都の街並みがよく見えた。


 橙色だいだいいろに染まった華やかな街並みは、一幅の絵画のようだ。

 街並みの向こうに見える、ひときわ立派な一群の建物は、おそらく王城だろう。連なるいらかが、夕暮れの光を照り返し、紅に染まっている。


「もっとよく見たいのなら、甲板へ出てみるか? このように小さい窓から見るより、その方がよかろう?」


「ありがとうございます。ですが、大丈夫です。ここからでも十分に綺麗で……」


 紅に色づく景色に目を奪われながら、明珠はふるふるとかぶりを振る。


 夕暮れの景色は、色彩こそあざやかだが、東の空から夕闇が迫りつつあるからだろうか。どことなく、もの寂しく感じる。


「……初華姫様のところへ行かれなくてもよいのですか?」


 窓から視線を外し、隣を振り向くと、龍翔が不思議そうに首をかしげた。


「ん? なぜだ?」

「だって……」


 明珠は残照に照り映える街並みに、もう一度、視線を向けた。

 数日前に王都に来たばかりの明珠には、単に美しい光景だが。


「初華姫様にとっては、生まれ育った故郷の見納めになられるのでしょう? 嫁がれた皇女様が、どのくらいの期間で里帰りが許されるものか、存じ上げませんけれど……。お一人で、寂しい思いをされているのではないかと……」


 言い終わらぬうちに、龍翔に優しく頭を撫でられる。


「お前は優しいな。初華にとっては、今回が生まれて初めての異国への旅だ。それが自身の嫁入りとなれば……。気丈な初華とて、不安を感じているやもしれん」


 龍翔を振り返った明珠の髪をく長い指先は、驚くほど優しい。


「兄とはいえ、男のわたしは、そこまで初華の気持ちを思いやれていなかった。お前に教えられて、至らなさに気づけた。感謝する」


 生真面目に頭を下げられ、面食らう。


「いいえっ、単なる私の想像で……っ」


「だが、確かに初華の顔を見ておいたほうがよいな。お前を張宇達に預けたら、初華の様子を見てこよう」


「はいっ! ぜひそうしてあげてください!」

 柔らかな笑顔で告げられた言葉に、明珠は大きく頷いた。

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