8 おいしいおいしいご飯です? その2
安理が手近な椅子を引き、背もたれをぽんぽんと叩く。
「ええっ、わざわざそのために来てくださったんですか⁉」
明珠の髪は、風呂で洗った後、侍女に丁寧に乾かしてもらっただけで、まだ束ねてもいない。
「いーよいーよ。オレが結ってあげたかったんだからさ♪ 遼淵様のお手並みを拝見したかったのもあるし。せっかくだから、今日はうなじを出して、晟藍国風の大人っぽい髪型にしよっか♪」
楽しげに言いながら、安理が座った明珠の髪をくしけずる。
「……で。なんで明珠チャンはずっと胸元を押さえてるワケ?」
手際よく明珠の髪を結いながら、ふと安理が不思議そうに問う。
「えっ、その……」
明珠は顔が再び熱くなるのを感じる。
「なんだか、胸元がすーすーして恥ずかしくって……」
「まっ、今は押さえててもらった方が助かるかな♪ オレ、まだ死にたくないし。……これ、角度的に絶妙にマズイわ……」
ぼそりと呟いた安理が、二人の様子を見守っている侍女に顔を向ける。
「いや~っ、さすが蚕家の侍女は有能だねっ♪ コレも遼淵サマの指示?」
楽しげな安理の問いかけに、侍女は相変わらず淡々とした表情で頷く。
「わたくしはただ、ご当主様のご指示に従って、お衣を整えさせていただいただけにすぎません。すべて、お嬢様がもともとお持ちだった魅力を明らかにしただけですわ」
「オレは会ったことはないけど、さすが、アノ遼淵サマを魅了した麗珠サマの娘ってとこかな? いやー、しっかし遼淵サマも本気だね、こりゃ。……遼淵サマの本気に敬意を表して、オレもちょーっと援護しちゃおっかな♪」
「? 安理さん? さっきから何を……」
頭ごしに謎の会話を交わす安理に、明珠はおずおずと尋ねる。
後ろに立っているので、安理の表情は見えないが、すこぶる楽しげに喉を鳴らす笑い声が聞こえてくる。
「いやー、もしかしたら今夜、明珠チャンに困ったコトが起きるかもしれないんだけどね?」
「ええっ⁉ 困ったことですか⁉」
髪を結ってもらっていることも忘れ、明珠は思わず安理を振り返る。
目に飛び込んできたのは、この上なく悪戯っぽい安理の笑みだ。
「だいじょぶ、だいじょぶ。オレがとっておきの呪文を教えてあげるから♪」
安理がそっと身をかがめ、明珠の耳元に唇を寄せる。
「どうにも困って、どうしたらいいかわからなくなったら、この言葉を言ったらいいよ♪ そうしたら、きっと事態は急展開♪ うん♪」
どこか甘みを帯びた安理の声が、明珠の耳のすぐそばで囁く。
「困ったら……」
◇ ◇ ◇
「んじゃ、秀洞サン。遼淵サマのとこまで、案内よろしく~♪ オレが先に見たってバレちゃ、怒られそーだしねっ♪」
安理に綺麗に髪を結ってもらった明珠は秀洞に引き渡された。
「んじゃまっ、明珠チャン、頑張ってね~♪ さすがに今夜ばかりはお邪魔しないからさ~♪ オレ、明日の朝、話を聞けるのちょー楽しみにしてるっ!」
またもや謎の言葉を口にした安理が、ひらひらと手を振って、廊下の向こうへ去っていく。
いったい、今夜の遼淵との食事で何があるのだろう……? 明珠の中で、どんどん不安が広がっていく。
「あの……。秀洞さん……?」
安理が去っても、ぼうっとした表情で明珠を見つめている秀洞に、胸元を両手で押さえたまま、明珠は小首をかしげる。
「あ、ああ……。申し訳ない。あまりに麗珠……いや、麗珠様に生き写しだったもので……」
「え?」
「よく、お似合いですよ」
驚く明珠に、秀洞が上品な笑顔を向ける。
「秀洞さんも、母さんをご存じなんですか?」
秀洞を見上げ、明珠は気づく。
(雰囲気がぜんぜん違うから、今まで気づかなかったけれど……。秀洞さんとご当主様って、顔立ちがすごく似てらっしゃる……)
「ええ、もちろんですよ」
秀洞がどこか懐かしむように、遠い目をして頷く。
「今でこそ家令をしていますが、昔は術師として、王城に勤めていましたから。……麗珠様と一緒に仕事をしたことも、何度もあるんですよ」
「そうなんですか……」
頷いた明珠を、ふたたび秀洞がじっ、と見つめる。
「初めて会った時には気づきませんでしたが……。あらたまった格好をしていると、本当に麗珠様そっくりですね」
「ええっ⁉ その……。母さんに似ていないと、言われてばかりなんですけど……」
凛と咲く一輪の花のように美しく気品があり、術師の腕も一流だった憧れの母に、明珠がちっとも似ていないことは、義父の
先日は、遼淵にも似ていないと断言された。が、誰に言われずとも、自分が母に似ていないことは、明珠自身、小さい頃から承知している。
明珠の言葉に、一歩先に立って廊下を歩きながら、秀洞は笑顔をこぼした。
「確かに、ふだんの雰囲気は似ていないかもしれませんが、麗珠様に似た格好をすると、さすが
「ご当主様と秀洞さんが、雰囲気は違うのに、顔立ちは似ていらっしゃるようなものでしょうか……?」
ふと思いついて尋ねると、秀洞の表情が固まった。
「……ええ、わたしと遼淵様は異母兄弟ですから……」
告げる声は固く、苦い。
明珠は唇をかみしめた。
どう見ても秀洞が遼淵より年上だ。そして、異母兄弟ということは……。
不義の子である明珠自身の境遇を鑑みるまでもなく、複雑な事情が背後にあるのだろうということは、たやすく想像できる。
「すみません……」
知らなかったこととはいえ、不用意に失礼なことを口にしたのではないかと謝ると、秀洞はゆるりと首を横に振った。
「いえ、お気になさらずに。蚕家に勤めている者なら、みな知っていることですから」
振り返った秀洞が、明珠を見て、口元を緩める。
「ああ、困り顔をしていると、ますます麗珠様にそっくりですね」
秀洞の右手が明珠に伸ばされ――、途中で止まる。
「ほら、あちらのお部屋ですよ」
ふい、と前に向き直った秀洞が、廊下のすぐ先の扉を示す。
「案内していただいて、ありがとうございました」
「いえ。どうぞ、ごゆるりと」
秀洞が扉を開けてくれる。
「失礼いたします」
明珠にとって、遼淵は「父親」である前に「蚕家のご当主様」だ。失礼のないよう、丁寧に一礼して部屋へ入る。
息を飲んだ音が、扉が閉まる音に混じる。
明珠はゆっくりと顔を上げ。
「あれ……? 龍翔様?」
てっきり、遼淵だけかと思っていた明珠は、遼淵の向かいで卓に座る龍翔を見て、きょとんと呟いた。
対する龍翔と遼淵も、皿のように目を円くして明珠を見つめている。二人とも、呆気にとられた表情だ。
居心地の悪い沈黙が、
「すっ、すみませんっ‼ 私、何か聞き間違いでも……っ! とっ、とにかく失礼しますっ‼」
あまりのいたたまれなさに、ばっ、と扉を振り返り、取っ手を握りしめる。
「ま、待て!」
椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がった龍翔が、明珠の手の上から取っ手を掴み、扉を開けさせまいとする。
背後から包まれるような体勢になった明珠の鼻に、龍翔の衣に焚き染められた香の匂いがふわりと届く。
「間違いなどではない。三人で食事をすることであっている」
すぐ後ろから、龍翔のあわてた声が聞こえる。
「すまん。見惚れるほど、お前が可憐で、とっさに反応できなかった」
「ふぇっ⁉」
龍翔の言葉の内容を理解したとたん、一瞬で頬が燃えるように熱くなる。
「あ、あの……」
おずおずと顔だけで振り返って、龍翔を見上げると、黒曜石の瞳が、真っ直ぐに明珠を見つめていた。
「よく、似合っている。月から仙女が舞い降りたかと、錯覚しそうだ」
「っ⁉」
かくん、と腰が砕けそうになる。右手で取っ手を握っていなかったら、へたり込んでいただろう。
「明珠⁉」
よろめいた腰を龍翔の腕が支える。
「ひゃっ⁉」
ちゃんと立たねばと思うのに、ふれられた腰から、逆に力が抜けてしまう。支えられていなければ、へにゃりとくずおれそうだ。
熱のこもった声に
と、ふわりと龍翔に横抱きにされ、さらに素っ頓狂な悲鳴が飛び出す。
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