大人になれなかった君とぼく

赤鈴

君と家族になりたい

 翔太くんは学校に行くのが嫌でした。


なぜなら、翔太くんはいじめられていたからです。


周りのクラスメイトはみんな見て見ぬふり。なかには嗤っている子もいました。


いじめっ子たちの仕返しが怖くて先生やお父さん、お母さんに相談することもできず、翔太くんは家に帰ると自分の部屋でいつも隠れるように泣いていました。夜になると朝がくるのが怖くて仕方なく、眠れない日もありました。


 ある年の春も終わろうかという頃のことです。翔太くんは思いました。


『もう、こんな世界にはいたくない。消えてしまいたい』


翔太くんは天国という、遠い、遠い世界へ行くことにしたのです。


そこに行けば、もう友達にも会えません。


先生にも会えません。


お父さんにも、お母さんにも会えません。


テレビも見れません。テレビゲームもできません。便利な携帯電話も、何もありません。


それでも、ここよりはいい。今の翔太くんにはそう感じられたのです。


本当はこんなことしたくない。もっとこの世界にいたい。もっとお父さんや、お母さんと一緒にいたい。


けど、もう心は限界でした。パンッ!という、風船が割れるような大きな音が自分の中でしたような気がしました。


 気がつくと、翔太くんは学校の屋上にいました。時間はちょうどお昼休み。屋上には誰もいません。グラウンドの方からは生徒たちの楽しげに遊ぶ声が聞こえてきます。でも、今の翔太くんには何も聞こえません。


空では白い雲がゆっくりと泳ぎ、青く綺麗な空が広がっています。太陽の光は翔太くんの心とは関係なく、眩しすぎる光で地上を暖かく照らしています。いつもとなにも変わらない日常が、そこには流れていました。


脚をぶるぶると震わせながらフェンスを乗り越えると、ふぅっと息をひとつ吐き、怖いのを必死に我慢しながら、高い高い屋上から飛び降りました。


止める人は、気にかける人は一人もいませんでした。翔太くんには友達がいなかったのです。誰にも知られることなく、翔太くんは落ちていきました。鳥のように飛べるはずもなく、その幼い身体は地面に強く叩きつけられました。目から一筋の涙が頬を伝って落ちます。その口は何か言いたそうに開いたままです。もしかしたら、お父さんや、お母さんに「ごめんなさい」と言いたかったのかもしれません。


最後に思い出したのは、お父さんと、お母さんの笑顔。もうその声を聞くことも、その顔も見ることもできません。


翔太くんがお父さん、お母さんに笑顔を見せることも、その声を届けることもありません。


生きて、家に帰ることもできません。


そして、今この瞬間、その事実を翔太くんのお父さんと、お母さんはまだ知りません。


いつものように学校にいると思っています。


いつものように「ただいま」と玄関の扉を開けて、帰ってくると思っています。


いつものように夕飯を一緒に食べれると思っています。


けど、それらが叶うことはもう二度とありません。


なぜなら、この世界に翔太くんはもういないからです。


それでも、白い雲も、青く綺麗な空も、眩しすぎる太陽も、いつもと変わらずそこにありました。






 次に、翔太くんが目を開けると、そこは見たことも、来たこともない、真っ白い世界でした。服もズボンも飛び降りた時に着ていた黒い制服のままです。


そこには青い空も、白い雲も、太陽もありません。あるのはすぐ近くで流れる透き通った川と、それを挟むような形で咲くいろんな色の花々。そして、空を、その世界を神々しい白い光が覆っています。まるで夢のなかにいるような、そんな気分でした。


少し先に川にかかった一本の白い橋があって、その上に誰かいます。それは人間にしてはあまりに小さく、黒い猫のように見えました。その猫はまるで人間のように、二本の脚で器用にちょこんと立っています。


黒い猫は翔太くんに気づくと嬉しそうにニコッと笑ってから、もの凄い勢いで駆け寄ってきました。翔太くんは思わず肩をビクッとさせて驚きます。


「やあやあ!ぼくの名前はクロ。君は?」


「俺は、翔太」


「翔太か。うん、いい名前だね。よろしくね、翔太」


そう言うと、クロはぷにぷにの肉球のついた黒い小さな手を差し出しました。どうやら握手をしたいようです。翔太くんがその手をそっと握ると、クロは満点の笑顔のまま手を上下に数回強く、大きく振りました。


「あの、ちょっと訊いていいかな?」


「うん、いいよ。何でも訊いて!と言っても、ぼくもついさっきここに来たばかりなんだけどね」


「ここって、どこなの?なんで橋の上にいたの?どうして君は猫なのに立って、喋れるの?」


「ちょっとちょっと落ち着いてよ。ひとつずつ答えるから」


クロはコホンッと、わざとらしく聞こえるように咳をひとつしてから、少し胸を張って自慢げに答えます。


「ここはね、天国への入り口なんだ。ほら、あそこに細くて長い一本道があるの分かるかな?あの道のずっと先に天国があるんだよ。そこには、ぼくたちが"神様"って呼んでる人もいるかもしれない。なんとなくだけど、分かるんだ。動物としての勘ってやつかな」


その手の先には真っ直ぐ続く、長い長い白い光の一本道がありました。横に二人並んで歩けるほどで、左右には色とりどりの綺麗な花が咲き誇り、まるで絨毯のように広がっています。道はどこまでも続き、その先は白い光に包まれていて見えません。


「そっか……。ここが、天国の入り口なんだ」


翔太くんは驚きもせず、目の前に広がる綺麗な景色をただただぼーっと眺めました。その顔は安心して笑っているようにも見えました。クロは続けます。


「ぼくは君のような人間と一緒に暮らしてたんだ。けど、捨てられちゃった……。すぐにまた違う、大きな人間に拾われたんだけど、その人間に変なとこに連れてかれたんだ」


「変なとこ?」


「うん。そこには他にも、ぼくの仲間が沢山いたんだ。人間たちはその場所のことを"保健所"とか言ってたと思う。何日かはそこにいたんだけど、今日はいつもと違うとこに連れてかれたんだ。てっきり遊んでくれるのかなって思ってたんだけど、違った。小さい檻のようなとこに仲間と一緒に閉じ込められたんだ。みんな怖がってた。"助けて!"って、泣いてる子もいたよ。暗くなったと思ったら、今度は急に息ができなくなったんだ。苦しくて、怖くて……。仲間の声もだんだん弱々しくなっていって、最後には聞こえなくなった。なんでこんなことされるのかも分からなかった。で、気がついたら一人でここにいたんだ。他の仲間は、たぶん先に行っちゃったか、別の場所にいるのかもしれない。一人で行くのもなんか寂しいし、誰か来ないか待っていたところに、君が来たってわけさ」


翔太くんは悲しい気持ちになりました。クロがあまりにかわいそうで泣きそうになりました。けど、泣いてる姿を見られるのがなんだか恥ずかしくて、涙が出るのをぐっと我慢しました。


「今度はぼくから訊いていい?」


「……うん、いいよ」


「君はどうしてここに来たの?」


翔太くんは言いづらそうに少し黙ってから勇気を出して答えました。


自分がいじめられていたこと。


クラスのみんなは誰も助けてくれなかったこと。


先生やお父さん、お母さん、誰にも相談できなかったこと。


そして、そんな毎日に耐えきれず、学校の屋上から飛び降りて、ここに来たこと。


吐き出すように全部話しました。クロは翔太くんの顔を見上げ、目をじっと見ながら黙ってそれを聞きました。


「行きたくないなら行かなきゃいいのに」


話し終えた翔太くんに、クロは思ったことを隠さずそのまま伝えました。


「そういうわけにもいかないんだよ。親もうるさいし、学校に行って勉強しないとみんなに置いてかれるんだ」


「ふ~ん。人間って変なの。その学校や勉強って命よりも大事なことなの?」


これには翔太くんも何も言い返せません。ただ黙ってクロの言葉を待ちます。


「ぼくたちの仲間の中にも嘘をついたり、いじわるする奴はたまにいるけど、人間ほどじゃないな。なんで人間って、みんな仲良くできないんだろう……。同じ仲間にそんな酷いことをするなんて、絶対おかしいよ!」


クロは腕組みをして、難しい顔でなにやら考え事をしています。近くで流れる川の流れる音だけが、やけに大きく聞こえます。


「う~ん……。やっぱりいくら考えても、君がどれだけ辛かったかなんて想像できないし、分かんないや。ぼくは君じゃないから君の気持ちを全て理解することなんてできないよ。ごめんね」


クロはその黒い小さな頭をぺこりと丁寧に下げました。


「俺の方こそ、人間が君に酷いことをして、その、あの……ごめんなさい!」


翔太くんも同じように、ぺこりと頭を下げました。それに気づいたクロは頭を上げ、不思議そうに尋ねます。


「なんで君が謝るの?君は何も悪くないよね?それなのに、何でごめんなさいしてるの?」


「俺も、同じ人間だから」


「たしかに、君も人間だけど、悪い人間じゃないと思う。ぼくには分かるんだ。君は良い人間だってね。それに、君はあの人間とは違う。同じじゃないよ。全然違う。だから、頭を上げて。お願いだからさ。君は悪くないよ」


翔太くんはクロの言葉に従うように、頭をゆっくりと上げました。でも、表情は暗いままです。


その時、クロは何か閃いたように、はっとしました。


「そうだ!だったらさ、ぼくの話し相手になってよ」


「話し、相手……?」


「そう、話し相手。天国に着くまでの間、退屈だからさ。だから、一緒に楽しくお話ししようよ!あっ、言っとくけど、ここから先はさっきみたいな暗い話はダメだからね!分かった?」


「えっ!?でも……」


「分かった?」


クロは無理やりにでも「うん」と言わせようと、強く言いました。あまりに強く言うので、翔太くんは思わず後ろに一歩引きます。


「う、うん。分かった」


「よし!じゃあ、今からスタートね。せっかくだから手つないで歩こうよ。その方が楽しいでしょ?」


そう言うと、クロはニコッと笑いながら、小さな黒い右手を差し出しました。


「うん。そうだね」


翔太くんも左手でその手を優しく握りました。その口から少しだけ笑みが零れます。どこからか吹く風が花たちを優しく揺らし、小さな波のような音となって聞こえてきます。二人はゆっくりと、楽しそうに歩きはじめました。


 二人して何を話そうか考え中。頭の中で色んな言葉があっちへ行ったり、こっちへ行ったり。





 例の一本道に到着する頃。クロは立ち止まって言います。


「じゃあさ、生きていたらしたかったことをお互いに言い合おうよ。そういうのを想像するだけでも楽しくなると思うんだ」


「生きていたらしたかったこと?」


「そう。したかったこと、君にもあるでしょ?」


「まぁ、それはあるけど……」


「それじゃあ、決まりだね」


二人はまた天国に向けてゆっくりと長い一本道を歩きはじめました。


「最初はぼくから言うね。ぼくがもし捨てられなかったら、人間ともっと遊びたかったなぁ」


クロは遠い日のことを思い出すように、道の先を見つめました。


「暖かい日には一緒にひなたぼっこしたりするんだ」


「いいね」


言葉にする度に頭の中にその光景が映画のスクリーンのように浮かびます。


「寒い日には一緒にこたつに入って暖まったりしてさ」


「うん」


光景が浮かぶ度にちょっぴり泣きそうになります。


「どこかへお出掛けするなら"いってらっしゃい"って送り出してあげたいし、帰ってきたら"おかえり"って出迎えてあげたい」


「そういうの嬉しいよね」


想いが次々と言葉になって止まりません。


「嬉しいときは一緒に喜びたいし、つらかったり、悲しいときにはそばにいてあげたい。ただ、なんでもない毎日を一緒に過ごしたかった。同じ天国に行くにしても、愛されながら行きたかった。愛してほしかった。たぶん、ぼくは人間と家族ってやつになりたかったんだと思う」


翔太くんは今にも泣きだしそうな目でじっとクロを見つめ、隣で黙って話を聞いています。


「たまにいたずらもするけどね」


そう言うと、クロは明るく笑ってみせました。その時、翔太くんが泣いているのに気づいて驚きました。


「どうして君が泣くの?泣いちゃだめだよ!せっかく楽しくお話ししようって言ってるのに、泣いちゃったら悲しい話になっちゃうよ」


「ごめん。我慢できなかった」


翔太くんは右手の袖で溢れ出た涙を慌てて拭き取りました。その様子を、クロは嬉しそうに見つめています。


「君は、優しいね」


「そんなことないよ。普通だよ」


「ううん、君は優しいよ。ぼくのために泣いてくれる、優しくて、温かい人間だ。そんな人間もいるなんて、ぼくは知らなかった。君のような人間には初めて会ったよ。もし出会ったのが君のような人間だったら、ぼくも幸せになれたのかな……。だとしたら、ぼくは君と家族になりたかったな。君とはもっと早く出会いたかった。こんなとこじゃなくてね」


クロは翔太くんの顔を見上げながら、少し悲しそうに笑いました。翔太くんにはクロが無理に笑っているように見えました。必死に楽しくしようとしているように見えました。


また涙が出そうになると、クロがやけに大きな声で「じゃあ、次は君の番」と、悲しい空気を無理やり追い払うように言いました。翔太くんは少し恥ずかしそうにしています。


「絶対笑わない?」


「笑わないよ」


「俺、友達がいなかったんだ。喋るのが苦手でさ。自分から話しかけたりとかできなかった」


「どうして?」


「勇気がなかったんだと思う。嫌われるのが怖かったんだ。要するに、弱虫だったんだよ、俺は。そんな自分が大っ嫌いだった。いつも自分にイライラしてた。友達同士で仲良さそうな人達を見ると、ずっと羨ましく思ってた」


翔太くんは少し下の方を向き、悔しそうに言いました。思い出すのはいじめられたときの嫌な記憶ばかり。思い出したくもない記憶ばかり。学校で楽しかった記憶なんて、翔太くんにはありませんでした。


すぐにまた前を向いて、続けて言います。


「だから、まずは友達をつくりたいな。何でも話せて、一緒にいると楽しくなるような友達をさ」


「友達ができたとして、その子と何がしたい?」


「そうだなぁ~」と言ってから、翔太くんは少しの間考えました。


「一緒にどこかへ遊びに行ったり、学校の帰り道に一緒に寄り道したり、ゲームしたり、くだらないことを言い合って一緒に笑ったりしたいな。修学旅行の夜には枕投げしたり、怖い話とかで盛り上がったりするんだ」


「聞いてるだけで楽しそうだね」


「たまに喧嘩とかもしちゃったりね。でも、またすぐ仲直りするんだ。で、喧嘩する前よりも仲良くなったりしてさ。そして、本当に困ったときには助け合うんだ。それが友達だと思うから」


もし本当にそんな学校生活を送れていたら、どれほど良かっただろう。翔太くんはそう思いました。いじめられない、楽しい学校生活。それは、翔太くんにとって夢のような生活でした。


「大人になったらやりたかったことはなに?」


「大人になったらやりたかったことか……。そんなこと考えたこともなかったな」


そう言って、翔太くんはまた少しの間考えました。頭の中で想像を風船のように膨らませます。考えれば考えるほど、どんどん楽しくなってきました。


「お父さんやお母さんと一緒にお酒を飲みたいな。特に、お父さんと」


「お酒ってなに?」


「お酒っていうのは、大人しか飲めない飲み物のことだよ。子供は飲んじゃダメなんだ。お父さんが"大人の味がする"って言ってた。子供には分かんない味なんだってさ」


「へぇ~。人間の世界にはそんなのもあるんだ。凄いなぁ。他には?」


「好きな人と結婚もしたいな」


翔太くんの顔がほんの少し赤くなりました。頭の中で同じクラスだった一人の女の子の顔が浮かびました。


「学校には好きな人いなかったの?」


クロの質問に思わずどきりとしました。少しだけ胸のどきどきが速くなります。


「も、もちろんいたよ。でも、たまに遠くから見るだけで胸がもうドキドキして、どうにかなりそうだったよ。話しかけるなんて、俺にとっては夢のまた夢さ」


「その人と結婚したかった?」


またどきりとしました。クロは興味津々です。


「そういうことも、正直考えたこと、ある。家に帰ったら好きな人がいるってさ、凄いことだと思うんだ。一緒に御飯食べたり、今日あったこととか話したりしてさ、たまに旅行なんかも行ったりするんだ。子供ができたら、男の子なら一緒にキャッチボールしたりテレビゲームをする。女の子なら公園とかで一緒に遊んだりするのかな」


「君ならいいお父さんになりそうだもんね」


翔太くんは照れくさそうに笑いました。


「そ、そうかな」


「うん!きっとそうだよ。優しいお父さんになる。ぼくが保証するよ」


「猫に保証されてもなぁ」


「あっ!そんなこと言うんだ。ひどいなぁ~」


二人は楽しそうに笑いました。この時、翔太くんもクロも本当に楽しくて仕方ありませんでした。初めて心の底から、自然と笑えたような気がしました。


「ねぇねぇ!他には?もっと聞かせてほしいな。君の話」


「実はさ、俺には夢があったんだ」


「へぇ~!どんな夢?」


「大人になったらテレビゲームをつくる会社に入って、みんなが面白いって言ってくれるような、最高のテレビゲームをつくる。っていうのが、俺の夢だったんだ」


夢を語る翔太くんの目はきらきらと輝いているように見えました。他の誰かに自分の夢を語ったのもこれが初めてでした。


「テレビゲーム好きなの?」


「うん。大好きだった。テレビゲームをしている間だけ、いろいろ忘れることができたから。違う世界へ行けたから。今から思えば、ただ逃げてただけなんだけどね」


「たまには逃げることも必要だよ。難しく言うと、戦略的撤退ってやつさ」


「猫にしては良いこと言うね」


「でしょ?」


クロは左手で髭をなでて、得意そうにしました。続けて、今度は真剣な顔で翔太くんに尋ねます。


「もし、いじめられてなかったら、こんなことしなかった?」


「間違いなくしなかったと思う。言いきれるよ」


いじめっ子の顔が浮かんできて、翔太くんは少しだけ嫌な気分になりました。


「なんでいじめるんだろう」


「面白いからじゃないの。あいつらにとっていじめは遊びの延長なんだよ、きっと。何が面白いのか分からないし、分かりたくもないけどね、俺は」


翔太くんは吐き捨てるように言いました。自分で言って、自分の言葉に腹が立ちました。


「自分がされて嫌なことは相手にもするなって、小さいときに教えてもらえなかったのかな。そんなことでしか仲間と関われないなんて、なんだかかわいそうな人間だね」


「君を捨てたのも、殺したのも人間。とことん嫌になるよ。君も人間嫌いになったでしょ?」


「そんなことないよ。翔太くんをいじめた人間や、ぼくを捨てた人間が悪い人間だったからといって、他の人間全員も悪い人間とは限らない。翔太くんのようないい人間も沢山いる。君と出会って、話して、それが分かった。だから、人間を嫌いになんてならないよ。翔太くんも嫌いにならないで」


いじめっ子を許すことはできない。けど、人間を嫌いになるのはやめよう。翔太くんはクロの言葉で、そう思うことができました。


「そうだね、君の言う通りだ。おかげで最後の最後で人間を嫌いにならずにすみそうだ。ありがとう、クロ」


「ぼくの方こそ君に会えて良かったと思ってる。こんなにも楽しくて、時間があっという間に過ぎるのは初めてだよ。ありがとう、翔太」


二人はお互いの顔を見て、ニコッと嬉しそうに笑いました。いつの間にか二人は友達になっていました。もしかしたら、それ以上の存在に。




 一本道もあと少しで終わりです。天国までもう少し。道の先の白い光がだんだん強くなります。二人とも立ち止まり、光の方を見つめています。


「もう少しで天国に着いちゃうね」


クロが少し寂しそうに言いました。翔太くんもどこか寂しそうです。散った花びらが風に乗り、綺麗な花吹雪となって二人の周りで雪のように降り注いでいます。


「そうだね、着いちゃうね」


「ねぇ、もし生まれ変われるとしたらさ、君はまた人間になりたいかい?」


クロの問いに翔太くんは心の中で迷って、すぐに答えることができませんでした。


人間に生まれ変われば、またいじめられるかもしれない。また同じことを繰り返すかもしれない。そう思うと怖くて、不安でたまりません。


それなら、いっそのこと人間とは違う別の何かに生まれ変わった方がいいんじゃないか。そんな考えも頭を過ります。


でも、それとは別にお母さんやお父さんとの楽しかった思い出も甦ってきます。今頃、お母さんとお父さんは翔太くんが突然いなくなったことで、涙が枯れるほど泣いているに違いありません。そう思うと会いたくて、ちゃんと謝りたくて仕方ありません。


翔太くんの中で一つの答えが出ました。


「正直、もう人間になんて生まれたくないって思ってた。何も悪いことしてないのにいじめてくるし、嫌なことばかりで楽しいことなんてない。こんな世界嫌だ!って。でも、君と出会ってその考えも変わった」


クロは翔太くんの目を見て、言葉を待ちました。


「世界には生きたくても生きられない、生きられなかった命があるってことを知った。君と出会って、話して、俺にも友達ができるってことが分かった。そして、友達や、家族のような、自分を愛してくれる人がいれば、辛いことも乗り越えられる。君がそう教えてくれた。だから、人間としてまた生まれ変わって、できることなら、本当に神様という存在がいるのなら、お願いしたいんだ。"もう一度、お母さんと、お父さんの子供として生まれ変わらせてください"って。そして、謝りたい。ごめんなさいって。こんなことをしてごめんなさいって。突然いなくなって、ごめんなさいって。ちゃんと、謝りたいんだ。でも、俺……弱虫だからさ。一人じゃ心細いんだ。だから、今度は君にも"家族"として、俺の隣にいてほしいと思ってる」


「ぼくで、いいの?こんな地味で、目の前を通るだけで不吉だっていわれるような黒猫で、本当にいいの?」


「なにが不吉なもんか!俺は君のおかげで救われたんだぞ。本当に感謝してる。それに、ここまで言わせておいて、いまさら何言ってんだよ。クロ、君じゃなきゃダメなんだ。俺は、君がいいんだ。君と家族になりたい。君にもうあんな辛い想いはさせない。苦しくて、怖い想いは絶対にさせない!俺が君をちゃんと愛するよ。後、君は十分かわいいよ、クロ。俺が、保証する」


クロの嬉しい気持ちが小さな目から大粒の涙となって、次々と溢れ出てきます。それを翔太に見られまいと、恥ずかしそうに顔をそむけます。その小さな黒い手で零れ落ちそうになる涙を拭き取りながら鼻をズズッとすすり、照れくさそうに「ヘヘッ」と笑いました。そして、続けて誤魔化すように言います。


「人間に保証されてもなぁ」


「そういう君はどうするの?また猫に生まれ変わりたいって思う?」


今度は可笑しそうに笑みを浮かべながら、クロは言います。


「それこそ、いまさらの質問じゃないか。君にここまで言われた後で"猫には生まれ変わりたくない!"なんて言えないよ。君も意外と悪い人間なんだね」


翔太くんはニッと笑ってみせてから言います。


「あいつらほどじゃないよ」


「でも、君の想いを聞いて、ぼくも決めたよ。ぼくをこんなにも愛してくれる人間がいるってことを、君が教えてくれた。だから、ぼくもまた猫として、今度は君の家族として生まれ変わりたい。どこかへお出掛けするときは"いってらっしゃい"って送り出して、帰ってきたら"おかえり"って出迎えるよ」


「暖かい日は一緒にひなたぼっこしよう」


「寒い日は一緒にこたつに入って暖まろうね。そして、嬉しいときは一緒に喜んで、つらかったり、悲しいときには君のそばにいる」


「なんでもない毎日を次は一緒に過ごそう。クロ、もう君は一人じゃない」


「翔太、君も一人じゃないよ。ぼくが君を守るから」


「それはそれは頼もしいね」


クロは少しムッとした表情を浮かべて、翔太くんを睨みました。


「あっ!今、馬鹿にしたでしょ!」


「してないよ。ほら、速くしないと置いてくよ」


「ちょっと待って!コラ!逃げるなぁ~!!」


先を行く翔太くんの後をクロが追いかけます。


二人はまるで昔から知っている兄弟のように、仲良さそうに、楽しそうな明るい笑顔を浮かべながら白い光の向こうへと消えていきました。






「翔太!早く起きないと学校遅刻するわよ。お母さん知らないからね!」


翔太くんは、お母さんのでかい声で目が覚めました。カーテンから太陽の眩しい光が射し込み、スズメが外で「チュンチュン」とさわやかに鳴いています。


眠そうにベッドから起き上がると黒い制服に着替えて通学カバンを持ち、お母さんと、お父さんのいる一階へと大きな口を開けてアクビをしながら下りていきました。


リビングに入ると、お父さんは椅子に座って新聞を広げて読んでました。その前のテーブルの上には白いカップに注がれたホットコーヒーが湯気を立てています。お母さんも台所で朝食の支度に朝から大忙しです。


「おはよ~」


翔太くんがまだ半分寝ているような顔でそう言うと、お母さんと、お父さんも翔太くんの方を見て「おはよう」と返してくれました。テーブルの上に朝食が次々と並べられます。


「あんた、また昨日夜更かししてたでしょ。早く寝なさいって何回言えば分かるの!?」


翔太くんはアクビで返事をし、まるで聞いてません。


「ったく……。いうこと聞かないんだから、この子は。あなたからも何か言ってやってくださいよ」


そう言われた、お父さんは新聞に夢中で「うん」という聞いているのか、いないのか分からないような返事しかしません。視線も新聞に向けたままです。お母さんの口から深い溜め息がひとつ漏れます。


「そういえば、あんた今日日直だって言ってなかった?そんなゆっくりしてて大丈夫なの?」


「あっ!!忘れてた!」


お母さんのその言葉で思い出した翔太くんは並べられた朝食を急いで食べ終えると、通学カバンを持って、慌てた様子で玄関へと走りました。学校へ行けば仲の良い友達が待っています。その後を弁当を持って、お母さんが追いかけました。


「お弁当忘れてるわよ!」


お母さんが玄関で翔太くんにお弁当を手渡すと、一階の寝室から一匹の黒い猫が眠そうにアクビをしながらトコトコと玄関にやってきました。


翔太くんがその場で屈んで喉のあたりを数回なでると、黒い猫は実に幸せそうな顔で「ゴロゴロ」と鳴らしました。


「クロ、いってきます」


その言葉に返事をするように、クロは「にゃあー!」と元気よく一声鳴きました。そして、今日も翔太くんは元気よく学校に行きました。


これからも二人はずっと一緒で、ずっと家族です。


それだけで二人は幸せでした。それだけで二人は毎日が楽しくて仕方ありませんでした。


暖かい日には一緒にひなたぼっこをしました。


寒い日には一緒にこたつに入って暖まりました。


嬉しいときには一緒に喜びました。


翔太くんがつらかったり、悲しいときには、そのそばに必ずクロがいました。


こうして二人はなんでもない毎日を家族として一緒に、いつまでも仲良く幸せに過ごしました。

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