第14話 念願の個人授業

 3年2学期が始まった。また、ちらっと姿を見られるかどうかの片想いの日々がやってきた。それでも毎日会えなかった夏休みよりも俺の心は踊る。

 颯太はやはり、経済学部を目指すことにしたそうだ。受験科目は国数英が主だが、元々国立大を目指していたので、それほど必要な科目は変わらず、クラスはもちろん、受ける授業も変更なしという事に落ち着いた。これは1組担任の岸谷先生から聞いた事だ。あわよくば文系クラスの2組に移転してくれるかも、と密かに期待していた俺は少しがっかり。だが、3年生になってから文理を変更する生徒は稀で、クラスを移転するという前例はないようだ。

 10月に入ってからのある日、その日の授業が終わって帰りのホームルームも終え、教室を出ようとドアに手をかけると、俺が開ける前にドアが開いた。なんとそこに、颯太が立っていた。クラスの生徒たちはどんどん後ろのドアから帰っていく。がやがやとしていた。

「先生、これから時間ある?」

颯太が俺にそう聞いた。心臓が激しくドンドンと胸を打つ。

「え?ああ、あるよ。」

俺は努めて平静を装って答えた。

「ちょっと質問したいんだけど。」

「おお、いいぞ。ここの教室でやるか?」

「うん。ちょっと待ってて。」

颯太はぴゅーっと自分のクラスに消えて行った。ゆ、夢に見た颯太の補習授業!国語の質問しに来てくれないかなーと何度思った事か。ついにこの日が来たか。

 颯太は荷物を持ってやってきた。適当な机に荷物を置いた颯太は、鞄からプリントとノート、筆箱を出した。

「ここでいい?」

「ああ、いいよ。」

適当な席に座り、プリントを広げる颯太。俺はその机の前の椅子を引いて横向きに座った。

「俺、第一志望は国立大で、二次試験は英数で受けるんだけど、私大は国語の試験あるからさ。過去問やってみたけど古文が難しいんだよね。先生って、K大卒だよね?」

「ん?ああ、そうだよ。」

「ふーん、すげーな。」

颯太の持って来たプリントは、K大経済学部の過去問だった。

「どこが分からないんだ?」

颯太の持っているプリントを覗き込むと、頭と頭が付きそうに近くなった。

「うっ。」

俺はとっさに上を向く。

「どうしたの?」

颯太が聞く。まさか、鼻血が出そうになった、などと言ったら変態だと思われる。俺は大きく深呼吸をした。上を向いたまま。

「何でもないぞ。これは更級日記だな。」

俺は落ち着きを取り戻し、顔の向きを元に戻した。

「え?もう分かったの?」

颯太は目をまん丸くして俺を見た。

「そりゃお前、何年国語の教師やってると思ってるんだよ。これはね。」

俺は得意げに解説をした。こういう時に饒舌になってしまうのは教師の性(さが)。今はドキドキしている場合ではない。颯太の貴重な時間だ。ちゃんと実になる授業をしないとね。たとえ一人が相手でも、絶対に手を抜かない俺。なるべく面白い解説をした。颯太は時々くすっと笑った。


 「どうだ、理解できたか?」

一通り授業をし、颯太に問うと、

「うん、よく分かったよ。サンキュー、先生。」

颯太はそう言うと、ろくに俺の顔も見ず、パタパタと書類を片付けて立ち上がろうとする。

「ちょっと待て。」

俺は颯太の腕をさっと押さえた。

「お礼はそれで終わりか?」

決して颯太だから、そう言ったのではない。教師の俺はいつでも生徒に正しい行いを身に付けさせたいと思っている。今、颯太の行いが礼に欠くと思ったものだから、そう言ったのだ。普通このような場合、生徒はへへへっと笑ってもう一度「ありがとうございました」と言い直すか、舌を出して腕を振り払い、走って逃げていくか、そんなものだ。しかし、颯太の反応は違っていた。

「えっ?」

過剰反応とも言うべきか、颯太は驚いた顔でそう言い、じっと俺の目を見つめた。一体どんなお礼をすればいいの?とでも問うように。

「いや、だから、ちゃんとお礼を言いなさいって事だよ。」

俺がそう言うと、ああ、そうかと言う顔をした颯太。そして、ちょっと深く息を吸ったかと思うと、

「先生、ありがと。」

と言って、すごく、すごく可愛らしい顔でにこっと笑った。こんなに近くで、こんなに可愛い顔を見られるとは思っていなかった俺は、やられてしまった。もう、心臓を射られた。

「また来てもいい?」

などと聞かれて、ああ、ここはパラダイスか!お金払って来ちゃうような所ではないかと疑ってしまうくらい、夢見心地になった。

「もちろん。」

俺はそう言って、まだ颯太の腕を放さずにいた。放さないどころか、少し力を込めて腕を掴んでいた。目は颯太の目にくぎ付け。ああ、このまま時が止まればいいのに。


 トントン。

「二ノ宮先生。」

教室のドアは開いていたので、形だけノックをして、学年主任の先生が俺を呼んだ。

「はっ、はい!」

俺は慌てて返事をして、颯太の腕から手を放した。ついでに勢いよく立ち上がる。

「お邪魔してすみません。これから学年会議やりますけど、出られますか?」

「お邪魔だなんて、全然!すぐ行きます!」

俺は忙しなく手をパタパタと振り、そう言った。

「お願いします。」

学年主任の先生は、そう言って去って行った。ふうっと息を吐く俺。びっくりした。どれだけ長い間颯太を見つめていたのだろう。あれ?そんな事をしたら、颯太が不審がるだろうに。俺は恐る恐る颯太を見た。

「じゃ、俺帰るわ。」

颯太はいつの間にか書類を鞄にしまっており、そう言って鞄を担いだ。さっきまでの甘い感じはどこへやら。いつものクールな仏頂面で去っていく。

 待ってくれ!邪魔が入ってしまったが、こんな風にブツリと夢が消えて無くなってしまうなんて、あんまりだ。だが、こちらの都合なのだ。颯太は何も悪くない。確かに個人授業は終わっていたのだが、颯太の方から帰ろうとしたわけではないのに、俺がもうおしまいだと言ったも同然。颯太は気分を害しただろうか。それともやっと解放されたと思ってむしろ邪魔が入った事に感謝しているだろうか。

 颯太はいなくなった。俺は教室の真ん中に立ち尽くす。胸が苦しい。颯太が質問しに来てくれて、すごく嬉しかったのに、最後はやっぱり辛い思いをしてしまった。恋とはそういうものなのか?喜びも大きいけれど、その代償に胸の痛みをどれだけ差し出せばいいのだろう。明日も会えますように。ただそれだけを願って、俺は仕事に戻った。

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