八雲先生の苦悩

夏目碧央

第1話 恋の吊り橋理論

 俺は二ノ宮八雲(にのみや やくも)、27歳。東京都内にある私立晴明高校の国語教師だ。晴明高校は母校でもある。高校卒業後、K大学に進み、教員免許を取得して母校に戻ってきた。

 教師であり、生徒たちからすれば先輩でもある俺は、自分で言うのも何だが生徒たちから慕われ、そこそこ人気がある。生徒はみな可愛い。男子校なので、可愛がる事に遠慮はいらない。贔屓するとか、生徒の好き嫌いなど、この5年間全く無縁だった。

 そう、この5年間、一度も「特別な生徒」などいなかった。それなのに、今、どうしてか「気になる」生徒が一人いるのだ。

 池田颯太(いけだ そうた)。彼が入学してきて、俺の気持ちはざわめき、浮足立った。どうしても目が行ってしまう。颯太が俺を見ていると(授業中に見ているのは当たり前なのだが)、心臓がドキドキ脈打つのだ。

 俺は、今までこんな経験をした事がなかった。大学時代は一応彼女もいた。何となく男3人、女3人が仲良くなって、いつの間にかカップルが成立していた。それも女の方が選んだと言っていい。何となく6人で遊び、3組のカップルに分かれる。恋人同士が経験する事は一通り経験したけれど、それは恋などではなかった。大学を卒業し、それぞれの道に分かれたらそれっきり。考えてみたら、付き合っている時でさえ、俺の方から会いたいと思って連絡した事など一度もなかったのだ。彼女も、もしかしたら他にも付き合っている男がいたのかもしれない。そうでなかったら、俺などでは耐えきれなかったのではないだろうか。そのまま自然消滅。彼女を恋しいと思ったりはしなかった。

 だから、「恋」というものを知らなかった。他の誰かではなく、この人に話しかけたい、触れたい、好かれたい、そう強く想った事もなかったのだ。それが、今、単なる一人の生徒、しかも、男の子に、その感情がなぜか芽生えてしまった。颯太に話しかけたい、触れたい、好かれたい。だが、これは幾重にも、タブーだ。教師と生徒、成年と未成年、男と男。ああ、なんという悲劇か。

 本当に、どうして俺があの子に魅かれるのか、不思議でならない。何かにとり憑かれたのか、単なる錯覚か。もしかしたら、ちょうど颯太を見た時に、他の要因で心臓がドキドキしていて、恋と勘違いしたのかも!聞いたことがある。ゆらゆら揺れる吊り橋を渡っている最中に異性と出会うと、恋が芽生える確率が増すという。(カナダの心理学者ダットンとアロンによって1974年に発表された「恋の吊り橋理論」)ただし、相手の容姿が悪いと逆効果だとか。つまり、颯太の容姿が俺好みだったとか?

 ・・・確かに、颯太は・・・可愛い。めちゃくちゃ可愛い。卵顔で、目が真ん丸で、そこに長いまつげが縁取りしていて、一言で言っておめめぱっちり。唇が紫色でふっくらしていて、それでいていつもきゅっと結んでいる。

 はぁ、はぁ、興奮しすぎた。颯太の顔の事を考えるのは一旦よそう。とにかく、今、教師5年目にして、何かが起きてしまったのだった。それでも、一年間そしらぬ振りを通してきた。授業を教えるだけだし、慣れた授業をしている分には、多少心に乱れが生じても問題ない。廊下ですれ違う時などに勝手にドキドキしていただけ。挨拶を交わして顔を赤らめていたとしても、誰かに気づかれる事もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る