第21話 開戦



源太郎の政界・財界への開戦工作が実を結び、ついに1904年2月3日の御前会議で天皇による日露開戦の裁可が降りた。


ここに第一軍から第4軍までの4本の矢をつがえた源太郎の練りに練った作戦がいよいよ開始されたのであった。


1904年2月9日12時20分、仁川湾内に停泊していた日本海軍の戦艦浅間がロシア艦艇に向けた発砲により日露戦争は始まった。


同日陸軍の第1軍は仁川から上陸して漢城(今のソウル)をその日のうちに占領した。これを受けた日本国際政府は翌日、ロシア政府に向けて正式な宣戦布告を発したのである。


開戦初頭の源太郎の考え方は


1 先発させている第1軍が鴨緑江を無事渡河して短期間で九連城を陥とせるかどうか

2 それに呼応して送る後続の矢が安全に海上輸送できるかどうか


この2点であった。


制海権を握るべく旅順艦隊の動きを封じるために海軍は2月18日に第1回旅順閉塞戦が行ったが不十分な結果のために3月27日に第2回、5月2日に第3回の閉塞戦を行った。


ちなみに第2回閉塞戦で広瀬武夫中佐は戦死して軍神第一号になる。


この閉塞作戦によりある程度成功を得たので兵力の輸送を妨げる敵艦の脅威はないと判断した源太郎は最初の矢である第1軍を鎮南甫に送り、短期間で平壌を陥落させて鴨緑江を渡らせた。


緒戦の目標は対岸の九連城の攻略であった。遼東半島の付け根にあるここが落ちるか落ちないかによってその後の作戦に大きな障害が残る要所であった。


しかし4月29日に鴨緑江を無事に渡河し終えた第1軍(司令官 黒木為禎大将)はわずか2日間の戦闘で九連城を陥落させたのであった。


勝因はロシア陸軍ザスーリチ将軍が兵力を分散配置したことによって日本軍はそれを十分な火力で応戦し各個撃破して大きな損害を与えたことと、ロシア側が早期の総力戦を最初から想定していなかったためにすぐに退却したことにあった。


鴨緑江会戦 1904年4月30日―5月1日


参加兵力

日本側 42000名

ロシア側 24000名

死傷者

日本側 1000名

ロシア側 1800名


ここに「第一の矢」の最初の目的が短期間で終了したことで源太郎は心から喜んだ。その喜びようは「下駄の歯が折れるほど飛び上がって喜んだ」と記されているからその歓喜の気持ちはいかばかりであったろうか。


金州・南山の戦い


その3日後に「第2の矢」である第2軍(司令官 奥 保鞏大将)は遼東半島の手首の部分にあたる一番くびれた部分である塩大墺に上陸して南山を攻める準備に入った。


この南山にロシア軍は機関銃と野砲114門を配備して塹壕と、鉄条網、地雷で囲った近代要塞を構築していたのであった。

あらかじめ雇っていた中国人スパイからの情報によってかなりの装備を揃えた要塞であることはわかっていたが日本陸軍はここに創設以来初めて西洋式近代要塞と対峙することになった。


戦いは敵の防御が当初予定していた以上の硬さであったために熾烈な戦闘が待っていた。


第1.2次攻撃では第4師団(大阪)が果敢な攻撃を仕掛けるものの当初の予想よりもはるかに多い弾薬を使い切ってもなお落とせない状況であった。

さらに第1師団(東京)の増援による第3次攻撃によって多くの死傷者を出しながらも金州の攻略は完了した。

また海軍の援護による金州湾からの艦砲射撃も功を奏したと伝えられる。


いずれにせよこの戦いに敗れて弾丸、砲弾が底をついたロシア軍は旅順に撤退することになる。


乃木希典の長男・勝典もこの戦いで戦死している。


南山会戦 1904年5月25日―5月26日


参加兵力

日本側 38500名

ロシア側 17000名

死傷者

日本側 4300名

ロシア側 1400名


ロシア側の2倍の兵力がありながら全兵士の10%もの死傷者を出さねばならないほどの苦戦ではあったが現太郎にとっては快調な滑り出しであった。

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