第9話 うしろすがた

 なめ吉の「な」はななちゃんの「な」で、「め」はカメの「め」で、「吉」は男の子だから。

 そう言ってゆーくんに小さなカメを手渡したのは、同じ幼稚園に通う、大きな目と小麦色の肌をした女の子。

 背はあこと同じくらい小さかったけれど、すごく足が速くて、あこはいつだって背中を追いかけてばかりだったゆーくんと、その子は並んで走ることができた。だからその子は、ゆーくんと一緒に鬼ごっこもサッカーもできた。

 あこはいつだって、それがうらやましかった。

 すごくすごく、うらやましかった。



 足下から、ごうごうと轟くような水音が響いている。

 十年前となにも変わらない。底の見えない濁った水に、ひしめき合うように浮かぶ木の枝やプラスチックの破片、ビニール袋。

 あの日は大雨のあとだったから、もっとひどかった。勢いよく押し寄せてくる濁流が、なにもかもを押し流していった。木の枝もプラスチックの破片もビニール袋も。獣の唸り声みたいな低い音を立てながら、一息に。

 小さな小さななめ吉なんて、ほんの一瞬だった。まばたきする間もないほどあっけなく、獣に呑み込まれ、消えた。


「ゆーくん」

 振り返ると、ゆーくんはあこの5メートルほど後ろに立って、自分の足下をじっと睨んでいた。

 いくら呼んでも、それ以上こちらへ来ようとはしない。顔を上げようともしない。あの日から、ずっと、そうだった。

「さっきね、あこ、いっこ嘘ついたんだ」

 ゆーくんはやっぱり顔を上げない。獣の唸り声だけが、絶えず足下を揺らしている。

「香月さんとはほとんど喋ったことないって。あれ、嘘なの。今日ね、あこ、けっこういっぱい喋ったんだ、香月さんと」

「……喋った?」

「香月さんねえ、ゆーくんと付き合いたいと思ってるんだって」

 そこでようやく視線を上げたゆーくんの顔を、あこは笑顔のまま見つめ返して

「香月さん、ゆーくんの答えはもうちゃんとわかってるんだって。香月さんがゆーくんにそう言ったら、ゆーくんは絶対、いいよって頷いてくれるんだって。ねえ、そうなの? ゆーくん」

 ゆーくんはなにも言わない。ただあこの背後に流れる川のほうへちらと目をやって、それからまたすぐに目を逸らす。

 あの日からずっと、ゆーくんはそんなふうに目を逸らしている。この川からも、緑色の小さなカメからも。


 十年も前のことなのに、記憶は鮮明だった。

 なめ吉が消えた水面を、食い入るように眺めていたゆーくん。しばらくしてあこのほうを向き直った彼の顔には、怒りでも悲しみでもない、ただ怯えた色が浮かんでいた。

 ななちゃんを突き落としたときはあんなに怒ったのに、なめ吉を川へ放ったあこに対して、ゆーくんはなにも言わなかった。ただ途方に暮れたような顔で、じっとあこを見ていた。

 いつだってあこの前にいて、あこは背中を追いかけることしかできなかった彼が、そのときはじめて、あこより小さく見えた。

 そうしてあこは、ほっとした。ああ、このゆーくんなら大丈夫なのだと思った。こんなふうに不安げな目であこを見つめるゆーくんなら。ずっと、あこから離れていかない。いつだってあこの傍にいてくれる。きっと。



 ――ななちゃんがくれた。なめきちっていうんだって。

 そう言ったゆーくんの手のひらの上で、緑色のカメが、まん丸い目でこちらを見ていた。

 ななちゃんの名前をもらって、なめ吉という名前がつけられた、小さなカメだった。


 もともと、ゆーくんは動物なんて好きじゃなかった。

 ゆーくんの家にはハナコという猫もいたけれど、お世話をしていたのはゆーくんのお姉さんとお母さんで、ゆーくんは全然可愛がっていなかったし、ハナコと遊ぶより、サッカーをしたり鬼ごっこをしたりするほうが、ゆーくんはずっと好きだった。


 なのにゆーくんは、ある日、ななちゃんからカメをもらってきた。

 ななちゃんの家で飼えなくなったから、ななちゃんがゆーくんに引き取ってくれるよう頼んだらしかった。

 べつにゆーくんが引き取らないといけない理由なんてなかったのに、ゆーくんはそのななちゃんの頼みを引き受けて、その日からなめ吉の世話を始めた。ハナコのときとは全然違った。エサやりも水槽の掃除も、全部ゆーくんがしていた。


 そしてその頃から、ゆーくんはあこと遊んでくれなくなった。

 あこと遊んでもつまんない、と、いつだったかあこはゆーくんに言われた。足が遅すぎて鬼ごっこじゃ相手にならないし、サッカーもへたくそでいつも変なところにボール飛ばしちゃうし。それはたしかにあこも自覚があったから、仕方ないなあ、と思って、そのときはなにも言えなかったのだけれど。


 代わりにゆーくんは、同い年の男の子たちと遊ぶようになった。その中には女の子もひとり混じっていて、それがななちゃんだった。

 ななちゃんは男の子に負けないくらい足が速くて、サッカーもすごく上手で、ゆーくんはどの男の子よりななちゃんといちばん仲が良かった。幼稚園から帰ったあとも、近所の公園でよく一緒に遊んでいた。

 だけどあこの中では、それはただそれだけのことだった。ゆーくんに、あこより仲の良い女の子の友達ができた。もちろんそれはそれでとっても寂しいことだったけれど、でも、ただそれだけのことだったから。


 いっしょにあそぼ、と。

 そう言えば、頷いてくれると思っていた。今までと同じように。

 だって、ずっとそうだったのだから。少しのあいだ一緒に遊ばなかったからといって、それで距離が開いた気なんてちっともなかった。ゆーくんは変わらずあこの傍にいると、そう信じていた。だからその日も、当たり前みたいにそう言った。

 だけど。


「ななちゃんとやくそくしてるから」

 ゆーくんはあこに、そう言った。

 それであこは、はじめて知った。

 これまでずっと続いてきたものが、これからも当たり前みたいに続いていくなんて、きっと、そんなことはないのだと。なくしたくないものは自分の手に抱え込んで、ちゃんと、守っていかなければならないのだと。


 どちらかというと、あこは鬼ごっこやサッカーより、お絵かきやおままごとをして遊ぶほうが好きだった。

 だけどゆーくんと一緒なら、鬼ごっこもサッカーも楽しかった。

 息が切れるくらい走っても、転んで膝を擦り抜いても。ゆーくんと一緒なら、何にも嫌じゃなかった。ゆーくんとの時間だけはきらきらしていて、特別だった。

 だからそれは、たったひとつ、あこの絶対になくしたくないものだった。

 守りたい、ものだった。

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