第8話 あまいひと
最近できたばかりのおしゃれなカフェで、ケーキを挟んでゆーくんと向かい合う。
ここのケーキがおいしいのだと噂に聞いてから、いつかゆーくんと行けたらいいなあ、なんてぼんやり思い描いていた夢が、こんなにも早く実現するとは思わなかった。
当店一押しだという苺のタルトは本当に噂に違わぬおいしさで、なにより目の前にいるのは他の誰でもないゆーくんで、タルトを口に運ぶたび、うふふ、と唇の端からひとりでに笑みがこぼれてしまう。
それでゆーくんがちょっと眉を寄せ、だけどどこか柔らかい口調で
「お前その、ひとりで意味もなく笑うのやめろよ。なんか不気味だから」
と、どこかで聞き覚えのある台詞を言った。
あこはあわてて「え、あ、ごめんね」と謝ったけれど、やっぱり口元のにやけは収まらなくて
「ほら、このケーキ、ほんとおいしいから、思わず笑ってしまうというか……あ、ゆーくんのケーキもおいしそうだよね! 生クリームたっぷりで!」
「食うか?」
「へっ」
思いも寄らぬ言葉が返ってきて、ぽかんとするあこの前に、ほとんど手のつけられていないショートケーキが差し出される。
あこが呆けたようにそれを見下ろしていると、「いいよ、食べて」とゆーくんはもう一度言った。優しい声だった。
「え、あ、えっと、じゃあひとくち」
あこはちょっと緊張しながら、おずおずとフォークを伸ばす。そうして端っこを少しだけ掬い、口に運んだ。途端、ふわっと口の中に広がった柔らかな甘みに
「あ、おいしい!」
と思わず声を上げる。そして、ああ、やっぱりショートケーキにしとけばよかったかなあ、なんてちょっとだけ後悔しそうになっていたら
「食べたいなら、全部食べていいぞ」
まるでそんなあこの気持ちを見透かしたみたいに、ゆーくんが言った。
へっ、とあこはまた素っ頓狂な声を立てつつ顔を上げる。それからちょっと戸惑って
「でもゆーくん、まだほとんど食べてないよ? これ」
「いいよ。もともと半分は亜子にやるつもりだったし」
「え? なんで」
「迷ってたじゃん、お前。どっちも食べたかったんだろ」
ゆーくんは当たり前みたいにそんなことを言った。それでようやく理解して、あ、とあこは思わず間抜けな声を漏らす。
たしかに注文のとき、あこは苺タルトにするかショートケーキにするかで散々迷って、いい加減ゆーくんがイライラし始めたのを感じた頃、途方に暮れて、結局、目を閉じてメニューを指さすという方法でタルトを選んだのだった。
そうしたらそのあとにゆーくんがショートケーキを頼んでいて、そのときにはなにも思わなかったのだけれど、そういえばゆーくんがショートケーキを食べている姿なんて今まであまり見たことがないことを、急に思い出した。
思い出した途端、ケーキとは比べものにならないくらいの甘さが、喉の奥のほうからこみ上げてくる。
「え、あ、えっと、えっと」あわてて口を開こうとしたら、まとまらない言葉ばかりが飛び出した。
「ほ、ほんとに、いいの? ゆーくん」
「いいって。つーか俺もう腹いっぱいだし、亜子食べて」
ゆーくんが続けた言葉に、さらに喉の奥がつんとする。こちらを見つめるゆーくんの表情もなんだか優しくて、あこはいよいよゆーくんの顔を見ていられなくなり、顔を伏せた。ようやく収まりかけていたにやけが、また勢いよく顔中に広がる。今度こそだいぶ情けない顔になっている自覚があったから、あこは思わず自分の口元に手をやりながら
「じゃあ、えっと、いただきますっ」
「うん」
「えへへ、ありがとうゆーくん」
今度は遠慮なくフォークをスポンジに沈め、さっきより大きなひとくちを口へ運ぶ。そうして口いっぱいに広がるふわふわとした甘さをじっくり味わっていたら、また、うふふ、とひとりでに笑みがこぼれてきた。
「なーんかいいねえ、こういうの」
もう表情を引き締めるのはあきらめて、思い切りにやにやしながら呟く。
「こういうの?」
「うん、こういうね、放課後デートみたいなの。すっごく憧れだったんだ。こんなふうに学校帰りにゆーくんとどっか行くって、中学の頃から滅多になかったし」
「まあ、部活があると帰る時間合わないしな」
言ってから、ゆーくんはふと思い出したように
「そういや、亜子もなんか部活入ればいいんじゃねえの」
「へ、部活?」
聞き返しながらあこが顔を上げると、ゆーくんはちょっと考えて
「お前絵描くの上手かったし、美術部とか」
「えっ、全然上手くないよ! なにそれ、ゆーくん、いつの話?」
「中学んときとか自慢してたじゃん。通知表、いつも美術だけは5なんだって」
「だけじゃないよ! 理科も5だったよ!」
思わず意気込んで訂正すれば、「あ、そうだったのか」とゆーくんは少し笑ってから
「そういやお前、理科の実験とかけっこう好きだったもんな」
「うん! 顕微鏡で微生物とか見るの、面白かった」
「そういう部もあるみたいだぞ。科学の実験とかいろいろやる部活。亜子、合ってんじゃねえの」
うーん、と呟いて、あこはケーキを口へ運びかけた手を止める。
「どうせ入るなら、それよりサッカー部のマネージャーがいいなあ、あこは」
言うと、ゆーくんもコーヒーを口に運びかけた手を止め、あこを見た。ついさっきまで穏やかな笑みの浮かんでいた彼の顔から一瞬で表情が剥がれ落ち、真顔に戻る。
「……マネージャー? うちの?」
「うん」
あこが笑顔のまま大きく頷いてみせると、ゆーくんはふっと表情を強張らせ、まばたきもせずにあこの顔を見つめた。
それから、少し迷うような間を置いて
「なに、香月がいるから?」
と質問を重ねた。
「え、違うよ」あこは首を傾げつつ小さく笑うと
「ゆーくんがいるからだよ。なんで香月さん? あこ、香月さんとはほとんど喋ったこともないのに。変なの、ゆーくんてば」
ゆーくんはなにも言わずに、テーブルの上のカップに視線を落とした。それきり、会話は途切れた。だからあこも、黙ってケーキを食べた。
ゆーくんがくれたショートケーキも、少しだけ食べかけていた苺のタルトもあっという間に平らげてしまって、ああ、ここのケーキならもう一つくらい食べて平気そうだなあ、なんて思いつつ、さすがにゆーくんの手前でそんなことを言い出す気にはならずに、黙ったまま冷めかけた紅茶を飲んでいたとき
「――亜子」
ゆーくんの低い声が、唐突に沈黙を破いた。
うん、と聞き返しながら顔を上げる。
ゆーくんは相変わらず硬い表情で、まっすぐにあこを見ていた。その視線を少しも揺らすことなく、言葉を継ぐ。
「なあ、ちょっと話があるんだけど」
うん、と相槌を打ってから、あこはカップを置いた。それからにこりと笑って
「でもその前にもういっこね、行きたいところがあるの。ゆーくん、もういっこだけ、付き合ってくれる?」
「行きたいところ?」
「うん。あのね、なめ吉が死んだ川」
目の前でゆーくんの表情が崩れるのを、あこはじっと眺めていた。大きく見開かれた彼の目に、あこが映る。
「……だから、その言い方」
「だって死んだじゃない。ゆーくんだって見てたでしょう。なめ吉は死んだよ。きっと、あの川で」
戦慄く唇からこぼれかけたいつもの台詞は、そんな言葉でさえぎって
「ね、行こうよゆーくん。あこの行きたいところに付き合うって、言ってくれたよね」
笑顔のまま言って、彼の返事は待たずに立ち上がった。
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