第6話 ゆれる

「亜子、口」

「へ?」

「またにやけてる」

 ちーちゃんにあきれ顔で指摘され、あこはあわてて自分の口元に手をやった。

 そうしてなんとか表情を引き締めようとしたのだけれど、どうにもうまくいかなくて、唇からは勝手にうへへとふやけた笑みが漏れる。

 それでちーちゃんの眉間のしわがより深くなって

「その、ひとりで意味もなく笑うのやめてよ。怖いから」

「え、あ、ごめん。笑うつもりないんだけどね、なんか勝手に……」

 謝るあいだもにやけが収まらないあこに、ちーちゃんは、はあ、と大きくため息をついた。それから疲れたように頬杖をついて


「まあ、土曜日のデートがよっぽど楽しかったらしいのはわかったけどさ」

「うん! ほんと楽しかったよ!」

 力一杯頷いて身を乗り出すと、ちーちゃんが、しまった、というふうに顔をしかめた。あこはかまわず「だってね、だってね」と右手を顔の横でぶんぶん振りながら

「手つないだんだよ、あことゆーくん!」

「それもう20回ぐらい聞いた」

 ちーちゃんはうんざりした様子で呟いて、ヨーグルトを一口飲んでから

「ていうか亜子たち、朝とかしょっちゅう腕組んでるじゃん。亜子が一方的にだけど」

「腕組むのと手つなぐのとは違うよ! しかもゆーくんのほうからつないでくれたんだよ!」

 机に身を乗り出し熱く語ってみても、「はいはい」とちーちゃんは冷めた表情のまま素っ気ない相槌を打つので

「それだけじゃなくて、デートのあいだ中、ゆーくんすっごい優しかったんだよ」

「なに、いつもは優しくないの?」

「いや、いつも優しいんだけどねっ、でもいつもよりもっと優しかったの。それに今日も、放課後どこか遊びに行こうって言ってくれたんだよ。今日、ゆーくん、部活がお休みだからって!」

 言うと、ちーちゃんはそこでようやく驚いたように、え、と顔を上げた。


「うそ、沖島くんから亜子に? 遊びに行こうって?」

「うん! びっくりでしょー。なんかね、最近ゆーくん、やたら優しいんだ」

 やっと満足のいく反応が返ってきたことに嬉しくなって、あこは意気込んで頷いてみせる。

 だけどちーちゃんのほうはふいに神妙な顔になって、なにか考え込むように視線を落とすと

「……最近やたら優しいって、なんか、それ」

「え、なあに?」

 よく聞こえなかったので聞き返せば、ちーちゃんはすぐに顔を上げ、「ああ、いや」と首を振った。

「なんでもない。たぶんあたしの考えすぎだと思うから」

 それから気を取り直すようににっこり笑って

「それより亜子、よかったね。今日もデートじゃん」

 と言ってくれたので、「うん!」とあこも満面の笑みで大きく頷いてみせた。


「で、今日のデートはどこ行くの?」

「それがね、まだ決まってないんだ。ゆーくん、自分はどこでもいいから、あこの行きたいところに行こうって。だから放課後までに、どこに行くかちゃんと考えとかないと!」

「なにそれ、沖島くんほんと優しいじゃん。どうしちゃったの」

「ゆーくんはもともと優しいんだよー。なんかね、高校入ってからいつも部活部活で、あんまりあこと遊んでやれてないから、部活が休みの日くらいあこに付き合う、って。あ、それでねちーちゃん! あこ、それ聞いててふと考えたんだけどっ」

「なに?」

「あこも、サッカー部のマネージャーになるってのはどうかなって!」

 ちーちゃんは、へっ、と素っ頓狂な声を上げながら頬杖をついていた顔を持ち上げた。あからさまに眉をひそめ、まじまじとあこの顔を見つめる。

「亜子が? サッカー部のマネージャーに?」

「うん、いいアイデアじゃないかな。そうしたら、部活の時間もゆーくんと一緒にいられるし!」

「いやでも、香月さんもサッカー部のマネージャーじゃなかったっけ?」

「うん? そうだけど」

 唐突に出てきた香月さんの名前に、あこがきょとんとして頷くと


「……前から思ってたけど、亜子ってつくづく神経図太いよね」

 ちーちゃんは心底あきれた表情になって、ぼそりと呟いた。

「へ、どういうこと?」

「いや、だって亜子って、間違いなく香月さんからは好かれてないじゃん。そこに飛び込んでいくなんて、勇気あるなあと」

「え、そうかな。でもあこ、香月さんとはまだあんまり喋ったことないし、これからたくさん喋ってみたら意外と気が合って、仲良くなれるかもしれないよ」

 笑顔でそう言えば、ちーちゃんは、はー、と感嘆するようなため息をつくような微妙な声を漏らして

「まあ、亜子のそのポジティブさはいいことだと思うよ」

 なんて、独り言みたいな調子でしみじみと呟いていた。だからあこもいつものように、「でしょでしょー」と、とりあえず胸を張っておいた。



 ホームルームが終わるなり教室を飛び出して、駆け足で下駄箱に向かう。そうしてまだひとけのは少ない下駄箱で腕時計に目を落とせば、針は4時40分を指していた。

 ゆーくんは放課後にちょっと委員会の仕事があるとのことで、待ち合わせの時間は5時になっている。だけどとくにすることもないし、なによりゆーくんを待たせでもしたら大変なので、もう20分間ここで待っていることにした。


 壁に寄りかかり、ふう、とひとつ息を吐く。それだけで喉奥からはくすぐったいような甘さがこみ上げてきて、うっかり口元がゆるんだ。油断すると、うふふ、とひとりでに笑い声まで漏れてくる。

 今までも、あこが勝手にゆーくんの部活が終わるのを待っていたことは何度かあったけれど、こうして待ち合わせをするというのははじめてだ。妙にドキドキしてじっとしていられない。まだ約束の時間には遠いことはわかっていても、ついつい10秒おきに時計を確認してしまう。


 そうこうしているうちに待ち時間は退屈することもなく過ぎていって、やがて下駄箱にも人が増え、喧噪が大きくなってきた頃だった。

 もう何十回目になるかわからない時間確認をしようとあこが腕時計に視線を落としたとき、ふいに近づいてきた足音が、あこの側で止まった。

 そうして手元に薄く落ちた影に、ぱっと心臓が高鳴る。同時にほころんだ顔のまま、あこは弾かれたように顔を上げた。


「早かったね!」

 ゆーくん、と続けようとした声は、喉の奥で消えた。

 ふわふわの茶色い髪が、視界の端で揺れる。

 見上げた先、見覚えのある冷たい無表情で、香月さんがまっすぐに、あこを見ていた。

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