第5話 てのひら

 昨日の夜、1時間かけて選んだシャツワンピースに、お気に入りの髪飾り、足下にはバイト代をはたいて買ったばかりのショートブーツを履いて、家を出る。

 空は雲一つなく晴れ渡っていて、絶好のデート日和だなあ、なんて思っていたら、ほんの30メートル先にある家のドアが開いて、ゆーくんが顔を見せた。ばっちりなタイミングにますます嬉しくなって、へにゃりと頬がゆるむ。


「ゆーくん、おはよ! いい天気だね!」

 いつものように声を掛けたら、思いのほか大きな声が静かな住宅地に響き渡った。

 ゆーくんはちょっと眉をひそめ、こちらを振り向く。

 当然ながら今日のゆーくんは見慣れた制服姿ではなくて、黒のジーンズにグレーのTシャツを着て、上から長袖の薄いシャツを羽織っていた。今更私服姿がめずらしいなんてこともないけれど、それでも久しぶりに見る彼のくだけた格好に心が弾んで、喉からはひとりでに弾んだ声が飛び出す。

「晴れてよかったね! 今日、降水確率0パーセントだって!」

 ふうん、と相槌を打ったゆーくんは、相変わらず眉をひそめたまま

「つーか、そんな大声出さなくても聞こえるよ。お前いつも無駄に声でかい」

 呆れたように呟いてから、くるりと踵を返し、駅の方向へと歩き出した。


 あこはいつものようにそんなゆーくんの背中を追いかけ、小走りで隣に並ぶ。そうして彼の腕に手を回せば、ゆーくんはあからさまに顔をしかめてあこを見たけれど、結局なにも言わなかった。

 代わりに、大きなあくびを一つこぼす。そうして眠たそうに重たいまばたきを繰り返す彼に

「あれ? ゆーくん眠いの?」

「眠い。電車乗ったら寝そう」

「えっ、だめだよ! 電車の中ではしりとりするんだから!」

「しりとり……」

 ゆーくんは軽く眉を寄せて呟いてから、もう一度あくびをした。本当に眠そうな様子の彼に、あこはちょっと首を傾げ

「でも、もう9時だよ? ゆーくん、いつもそんな遅くまで寝てるの?」

「休みの日は基本昼まで寝てる。つーか9時って充分早いだろ。だいたい、水族館って9時から行くほど見て回るとこあんのか」

 思い出したようにそんな疑問を口にするゆーくんに、「え、なに言ってるのゆーくん!」とあこは力一杯反論する。

「いっぱい、いっぱいあるよ! ほんと大きな水族館なんだから。あとアシカのショーとかも見たいもん」

 意気込んで告げると、「アシカ……」とゆーくんはまたなんとも微妙な表情で呟いていた。


 行くとしたら昼から、という最初に掲げていた条件をゆーくんが覆してくれたのは、つい昨日のことだった。

 大きい水族館だから朝から行ってゆっくり回りたい。それにせっかくなら向こうで一緒にお昼ご飯も食べたい。

 そんなことを言って、駄目もとのつもりでもう一度頼んでみたのだけれど、ゆーくんは意外なほどあっさり頷いてくれた。最初に提案した8時からというのはさすがに断られたけれど、その次の9時で了承してもらえたのにもびっくりした。


「でも、ほんと楽しみだねえ、水族館」

 へらりと笑ってゆーくんの顔を見上げる。

 するとゆーくんもあこのほうを見て、目が合った。眠たそうだった顔からほんの一瞬表情が消えて、色のない視線がまっすぐにあこの顔を見据える。

 けれど本当に、ほんの一瞬だった。すぐに、その顔にはいつもの呆れたような表情が戻り

「そうだな」

 と、聞き慣れた、素っ気ないけれど柔らかい相槌が返ってきた。



 ゆーくんは本当に電車に乗るなり寝てしまって、結局、しりとりはできないまま辿り着いた水族館。

 絶好のお出かけ日和な土曜日だからか、開館したばかりの時間帯でもすでに人は多くて、軽く列が出来ているところもあった。

 入り口をくぐるなり、一面を埋めるキラキラと輝く水槽に心はあっという間に浮き立って、あこはゆーくんの手を引いて早足に奥へ進む。そうしてまずは館内の案内地図の前に立つと

「あっ、カメ。カメあった!」

 すぐにお目当ての名前を見つけ、うきうきと指さした。

「ほら、ここ、ここ。わあ、ふれあいコーナーもあるんだって。エサとかあげられるみたいだよ。やったね、ゆーくん」

 言いながらゆーくんのほうを振り向くと、ちょっと困ったような顔をした彼がまっすぐにあこを見ていた。

 それからゆーくんは、そっと自分の腕を引っ張るあこの手をほどき

「俺はいい」

 と言った。


 一瞬なにを言われたのかわからず、「へ?」と間の抜けた声を上げながらゆーくんの顔を見上げてしまうと

「亜子、行きたいなら行ってこいよ。待ってるから」

 淡々とした調子で、ゆーくんはそんな言葉を続けた。

 あこはしばしぽかんとしたあとで、「え、え、なんで?!」と素っ頓狂な声を上げる。

「ゆーくんも行こうよ! ゆーくん、カメが見たいから水族館来たんでしょ?!」

「いや、来たいって言い出したのは亜子だろ。俺はべつにそんなこと言ってない」

「でもゆーくん、カメ大好きだったでしょ。ね、せっかくだし行こうよ。めずらしいカメとかいっぱいいるみたいだよ。ぜったい面白いよ」

 そう言って、もう一度ゆーくんの腕を引いてみる。けれどゆーくんの表情は変わらなかった。

 相変わらず少し困ったような、だけどどこか静かな表情であこの目を見つめ返す。そうして、「ごめん」と言った。

「俺は行かない」

 表情と同じ、そのひどく静かな彼の声に、あこはそれ以上駄々をこねるのをやめた。

 ちょっと心残りはあったけれど、そっか、と呟いてから、気を取り直してにこりと笑う。


「じゃあ、あこもいいや!」

 あっさりとした調子で言うと、「は?」とゆーくんは面食らった様子でこちらを見た。

「いやお前、カメ見たいっつってたじゃん。そのためにここ来たんじゃなかったか」

「ううん、ほんとはね、そういうわけでもなくて」

 あこはいつものようにへらりと笑いながら、指先で軽く頬を掻くと

「べつにね、カメじゃなくてもよかったし、水族館じゃなくてもよかったんだ。ただゆーくんとどこか遊びに行きたいなあって思っただけで、本当は、ゆーくんと一緒ならどこでもよかったの。だから、ゆーくんと一緒じゃないと意味ないもん。あこもカメはいいから、それよりゆーくんが行きたいところに行こう。ね」

 そう言ってゆーくんの手をとれば、ゆーくんは少しのあいだ黙ってあこの顔を見つめたあとで

「……そっか」

 と小さく、けれど穏やかに笑って、呟いた。



 ぺたぺたと丸っこい体を揺らしながら、ペンギンが氷の上を歩いている。何羽かは水の中を気持ちよさそうに泳いでいて、ときどき気まぐれみたいにひょいと陸に上がってきた。

 そんな仕草のひとつひとつが全部びっくりするほど可愛らしくて、あこは鼻先を押しつけるようにしてガラスに貼りつきながら

「かっわいいねえ、ペンギンて。ずっと見てても飽きないね」

 さっきから何度目になるかわからない言葉を、再度、隣にいるゆーくんに向けて繰り返した。

 けれど、さっきまでは律儀に返ってきていた「そうだな」という相槌が聞こえなくて、あれ、と思いながら横を向く。

 もしかしてゆーくんはもうとっくに飽きてて、いつまでここにいる気だよってイライラしてきたのかな、なんて不安が過ぎりつつ、そっとゆーくんの横顔を窺おうとしたら、当然ガラスの向こうのペンギンを見ていると思ったゆーくんが、なぜかあこのほうを見ていて、目が合った。


 思いがけないことに、びっくりして一瞬息が止まる。

 あこと目が合っても、ゆーくんは表情を動かさなかった。ただまっすぐに、無表情に、じっとあこを見ていた。

 数秒間、奇妙な沈黙が流れる。

 ちょっと緊張しながらあこも黙ってゆーくんの顔を見つめていると、やがてゆーくんがおもむろにこちらへ手を伸ばし、あこの髪に触れた。そのまま何度かゆっくりと撫でる。

 いつになく優しいその仕草に、喜ぶより先に困惑が湧いてきて、おどおどとゆーくんの顔を眺めていれば、ゆーくんは相変わらずまっすぐにあこを見つめたまま、小さく笑みを浮かべた。どこか大人びた、そしてどこか寂しげにも見える、複雑な表情だった。


 少しして、ゆーくんの手があこから離れる。それからふっと遠くのほうへ視線を飛ばしたゆーくんは

「そういや亜子、アシカのショー見たいんだろ。そろそろ始まるぞ」

 やっぱり穏やかな声でそう言って、あこの手を引いた。

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