ガンの放射線照射で、未来見えた

ハリマオ65

第1話:塚田家の先祖の話1

 ここは、東京から比較的近い、埼玉県上福岡市、塚田家は、元々、江戸時代

から庄屋を務めて、江戸時代から、川越から、現在のふじみ市を抜け、志木市、戸田、川口を抜け,やがて、隅田川に入り、千住大橋,浅草、両国橋のたもと、

日本橋に通じて、船で大きな荷物を運ぶ、巨大な運送路だった。その新川岸川

の船荷の運搬を取り仕切りっていた。それにより、巨万の富を蓄えて、地元の

庄屋として、名の知れた、新川岸川の廻船問屋として、長期間にわたり、君臨

していた。そのため、川越、福岡あたりでは、塚田大尽と呼ばれて、多くの

分家が、船の往来の仕事に、従事していた。当初は年貢米の輸送を主として

いたが、時代が進むにつれて、人や物資が往来する様になった。


 舟の種類は、並船、早船、急船、飛切船などがあり、並船は、終着地の

浅草花川戸まで1往復1週間から20日かかる不定期の荷船、早船は、乗客を

主として運ぶ、屋形船で、急船は1往復3-4日かかる荷船。飛切船は、今日

下って、明日には、上がる特急便でした。通常・高瀬舟で7-80石積み、

九十九曲がり三十里を川越方面からは俵物、米・麦・穀物、さつまいもや

農産物、木材などを運び、江戸からは肥料類など、主に日用雑貨を運搬して

いた。川越では旭橋を中心とした、上・下新河岸、扇河岸、寺尾河岸、

牛子河岸を合わせて、川越五河岸と呼ばれ、船問屋や商家が軒を並べ、

日夜発着の船が絶えなかった。その物資を運搬する馬や車が行き交い、

大賑わいだった。まさに、物資供給の中心地として栄えた商都川越の玄関口

だった。


 幕末から明治初年ごろが舟運の全盛期となり、その後、鉄道が開通し、洪水

防止のための河川改修により水量が不足し舟の運航ができなくなり、舟運は

1931年に終わりを告げた。塚田家の人達は、1900年頃の鉄道の発展を

見て、いずれ、舟運の時代を終わると考えて、早めに、この商売の権利を他人

に売り渡し、大きな財産を得た。その大金で大戦景気、大正バブルに乗って

イギリスやロシア帝国などの連合国側の同盟国や友好国は、不足する軍需品

などの供給を日本に求め、求められる商品を莫大な財産で日本中から買い

まくり、同盟国に売りまくって、大儲けした。


 更に、アジア市場からヨーロッパ製の商品が後退した後、日本の需要の高い

商品を、国内で大量に買っては、アジア・アフリカに輸出業者と組んで、売り

まくり、東京1の金持ちになった。その後、船が足りないとわかると、景気

の悪い、船会社から,ボロ船を現金で買い集めて、法外な高値で船を貸し出し

たり、売却し、その富を更に,増やしていき、同時に,船会社や鉱山会社、

商事会社の株を買い集めて、年5割や年7割などの配当をする会社も珍しく

なく、株式市場も活況を呈して、大儲けしたが、商売の勘の鋭い、塚田勝一は、

いつまでも、小国日本の好景気は続かないと思い、下げ始めると,持っていた

大量の株式や、商品、船などを一気に、処分した。そうして、1923年、

大正12年9月1日正午前の関東大震災で瓦礫の山となった帝都・東京を横目

で見て、それ程大きな被害を受けずに、生き延びた。

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