序、

上総御曹司

 京は堀川六条に、大きな館があった。


 洛中の者は、

 ――源氏ヶ御館。

 と呼んでいる。河内源氏の一族郎党と、大勢の使用人が暮らしている。


 その日は朝から、やかた中が沸いていた。指折り旅程を数えるに、今日あたり当家の嫡男「上総御曹司かずさのおんぞうし」が、関東から久々に帰ってくる筈なのである。


 館には「左女牛井さめがい」という、京屈指の名水が引き込まれている。

 館の下男、下女達はこの清らかな水で、館中を隅々まで掃除した。好天を幸いと、郎党達も率先して庭の草を毟り、箒で掃き清めた。それを館の当主あるじである六条判官ほうがんが、落ち着き無くあちこち歩いて回りつつ、

「ここを、もそっとしっかり磨け」

 と、館の者達に指図するのである。


 立派に成長し関東でその名を轟かせる嫡男。その帰省に喜ぶ、父。誰もが当主あるじの心中を微笑ましく思い、

「心得てございます」

 と笑顔で応じた。館中の者が嬉々として掃除に励んでいた。


 そんな中、今度は別の騒ぎが起こった。

 ここ数日、

「酷い頭痛がする……」

 と自室にて臥せていた当家の八男が、ようやく起き出してきたのである。

 誰もがその姿を見て、驚きの声を上げた。


「八郎。お前、急に背が伸びたのではないか!?」

 父、六条判官は目を丸くした。

 息子八郎は今年一一歳である。臥せる前の身長は五尺程であった。そもそも一一歳で五尺というのも随分大柄であるが、わずか数日で更に六尺にまで伸びていたのである。館内の誰よりも背が高くなっていた。


「どういうことだ?」

 皆が訝しがった。顔つきまできりりと引き締まり、別人のように変わってるのである。


 そんな騒ぎの最中さなか、待ちに待った上総御曹司一行が館に帰着し、草鞋わらじを脱いだ。


 精悍な顔が、真っ黒に日焼けしている。下女達は無作法にも黄色い声を上げ、たちまち御曹司の周囲に群がった。旅装を脱がせる者、手拭いで汗や埃を拭ってやる者、左女牛井さめがいの水を張ったタライを持って来る者、足を洗ってやる者。……

 すぐに風呂が立てられた。御曹司一行は蒸し風呂で旅の垢を落としさっぱりすると、真っさらな衣類に着替えた。そしてうたげが始まった。


「無事、戻りましてございます。父上殿もお変わりなき御様子で、恐悦至極に存じまする」

 胡座あぐらをかき両のこぶしを床に着け、御曹司は父、六条判官に頭を下げつつ挨拶する。

「うむ。お前の噂はここまでう響いておるぞ。大いに励んでおるようじゃな」

 父も嬉しそうに、しきりに頷く。


 それから御曹司は、居並ぶ兄弟に視線をやり、中でもひときわ大きな八郎が目に止まった。

「ほう……八郎か。お前、大きゅうなったな」

 にこやかに声をかける御曹司に、八郎は黙って頭を下げた。


「それがじゃなあ……」

 父、六条判官が御曹司に語りかけるのである。


「ほんの数日前まで、八郎の背は五尺であった。よわい一一やさかい、五尺でも随分大きいが、ここ数日頭痛で臥せている間に、さらに六尺に伸びおった。皆、驚いておるところじゃ」

「まことでござるか……。不思議な事も、あるものでございますな」


「八郎。そなた、偽者ニセモノではあるまいか!?」

 と、横から口を挟んだのは、当家次男の義賢よしかたである。


「いやいや。左様な筈はございませぬ」

 末席の若侍が反論した。彼の名は重季しげすえという。幼少の頃から八郎の世話役を務めている、若党である。


「まあ、他ならぬ重季がそう申すのであれば、ニセではなかろう」

 父は笑った。御曹司も、

「世の中、色々あるわいの。不思議な事も珍しくないぞ。大柄なのは武家の男として、良き事ではないか。のう、義賢よ」

 と言った。義賢はなおも何か言いたげであったが、盃の酒を口に含んで黙った。


「八郎。お前は立派な侍に成れるぞ。……そうじゃ、明朝はお前に、弓の稽古をつけてやろう」

 御曹司は八郎に笑顔を向け、そして盃を煽った。皆、大いに飲み大いに食い、御曹司の武勇伝をさかなに夜半まで盛り上がった。

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