街角で拾った昭和史

@wada2263

第1話 東条英機 暗殺未遂

 昭和20年5月25日午前零時を過ぎたころ、世田谷区の玉川地域でピンポイントの爆撃があった。

 本体から分かれたB29爆撃機の一機が轟音をとどろかせながら低空で飛来し爆弾を落としていった。爆弾は、玉川用賀町の鍋島邸を直撃し、屋敷は木っ端みじんとなり炎上した。佐賀鍋島藩主の一族で、昭和初期に牛込から世田谷へ移り住み罹災したのだが、この一発の爆弾を巡って次のような伝聞が地元に残っていた。

 「鍋島邸が爆撃され焼失したが、隣家は首相官邸から玉川用賀2丁目に住まいを移していた東条英機邸であり、明らかに東条邸、東条英機を狙ったものだ」というのである。

 この時、被弾を免れた東条邸は、昭和58年頃まで玉川用賀町(現世田谷区用賀1丁目10番)にあった。東条邸を記憶する古老は「昭和7年頃から住まいとして使い、常時30人くらいの憲兵が物々しく警備していた。敷地は400坪程度で、主家を丘陵地の頂上に立て、北側に犬舎、炭小屋、窯場があり、さらにその裏に長屋があった。西南側にはプールと防空壕があった。主家が解体されるとき、玄関と応接間部分は静岡の親戚宅へ移築された」と証言した。

 当時の米軍の情報力は我々が想像するよりも優れており、リアルタイムとまでは言えないものの、東条首相や軍幹部たちの動向は偵察機による撮影、通信傍受、スパイからの連絡等により居所や行動パターンを掴んでいたようだ。東条側も捕捉を警戒し移動時間や行程を変更していた。当夜、東条英機が在宅であったかどうかは判然としない。

 昭和20年3月10日、東京大空襲で飛来したB29は130機に及び166トンの焼夷弾を無差別に投下し、一夜で10万人の都民が犠牲者となった。人類史上最大の虐殺である。これをきっかけに米軍は大規模な空爆を繰り返し、5月24日から25日未明にかけて大田、品川など城南地区を焼野原にした。この時に一機だけが玉川へ飛来し、一発だけ爆弾を低空で落としていったというのである。

 米軍に東条殺害の意図があったかどうかはわからないが、警告の一発にはなったはずだ。しかし、その後も日本の為政者たちは戦争を遂行し、長崎、広島の原爆投下という悪夢を転げ落ちていった。

 昭和20年9月11日、東条英機は玉川用賀町のこの自宅で自殺を図るも失敗し米軍により逮捕された。


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