それでもこの冷えた手が

@aki89

一話 手紙

久しく遅れていた春がようやくその足音を響かせたような暖かな日の夕方、男は人里を離れた家に帰り着いた。

やはりこの距離は堪える。早朝早くに家を出てから、ほとんどの時間が徒歩での移動に費やされた。

加えてこの陽気。厚着をしたのは間違いだった。まさか山と里との間にこれほどの気温差があるとは。


この時期ならばもっと暖かいとしてもおかしくはない。だが今年は雪が未練がましくいつまでも降り続いており、余裕を持って蓄えてあったはずの冬籠り用の食料も尽きかけていた。急いで街へ降りたのもその買い出しのためだ。


狐や猪など、冬の間に山で獲った獲物を金に換え、それを持ち得る限りの食料や生活品に換えてきた。これでまた暫くはこの山での静かな生活だ。

多少の不便はあるが、里に家を移すつもりはない。終わりの時がくるまで、残りの人生はこの小屋で、一人で暮らすのだと決めていた。


帰り着くと同時に重たい荷物を放り投げ、無用の長物であった外套を脱ぎ去った。ようやくひと心地つける。ここで誰かが冷たい水でも出してくれれば最高だが、生憎そんな気の利いた存在はもういない。

仕方がないなと独りごちて、男は表にある井戸へと向かった。


井戸は小屋のすぐそばにある。冬の間に雪で蓋をされてしまわぬよう、簡素な屋根がついていた。決してやわな作りではないのだが、昨年のあの冬以来どうにもガタが来ている。次の冬が来るまでには、補修をしておく必要があるだろう。


井戸の底に向かって桶を下ろし、水を汲み上げる。男はそこに顔を突っ込み、ガブガブと飲みくだし始めた。身体が火照っているからだろうか、やけに冷たく感じられた。美味い水だった。


存分に喉を潤し、ついでに腹も膨らませた男は、再び小屋へと戻る。

最低限の片付けだけ済ませたら、今日はもう休もう。そう思いながら部屋を見渡した時、何かにが目についた。朝に家を出た際にはこんなものはなかったはずだ。

近づいてそれを手に取る。四角く折りたたまれた白い紙。広げて中を確かめる。


『xxxx様』と、それは男への宛名書きから始まる手紙だった。さっと見たところ、差出人の名は書かれていない。

いったい、誰が。


男は腰を落とし、その手紙を読み始めた。

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