ヘテロフィリア

サヨナキドリ

第1話 ヘテロフィリア

「ああぁああぁ!!なんでだ!なんでだよ!」

 屋上。春の青く澄んだ空に絶叫が響く。

「俺が、俺が悪いのかよ!勉強もスポーツも頑張って来たぞ!男も女も誰も分け隔てなく扱った!誰一人としてないがしろにしなかった!それが、それが」

 叫び声の主は制服の少年だった。すらりとした長身。清潔感のある短髪は茶色がかっている。コンクリートの壁を殴りながら、整っているであろうその顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いていた。

であることがそんなに悪いかよ!!!」

 ひときわ高く叫ぶと少年は膝から崩れ落ち、壁に寄りかかった。その手からは血がにじんでいるが、かまわず叫び続ける。

「だいたい、セクマイってのはお前らのことだったんだ。LGBTのことだったんだ、たった50年前までは!それを、ぽこじゃか増えやがって!間違ってるんだよお前らは!気持ち悪いんだよお前らは!」

 ガチャり。屋上に続く鉄の扉を開ける音がした。少年は息を吐き出しきったまま凍りついた。

「本当だったんですね。今木くんがヘテロだって」

 扉から現れた少女がそう言った。黒く長い髪。その姿には見覚えがある。同じ教室の隅の方で、よく紙の本を読んでいるクラスメイトだった。名前は確か、井上。井上白雪だったか。少年、今木翼は尻もちをついたまま後ずさりして、命乞いの言葉を考えた。こんな性差別的は言葉を吐いたと知られたら、社会的に終わりを迎えるのはまず間違いないからだ。例えば内申書にそれを書かれれば、ただ大学に進学することさえ遠い夢となってしまう。

「大丈夫ですよ。私しか聞いていませんから。ここの扉、結構厚いんです。」

 なにが大丈夫なものか。“私しか聞いてない”ということは、“私は聞いていた”という意味だ。

 どこからだ。いったいどこから聞いていた。なお怯える翼に、井上は少しあきれたように言った。

「だから、大丈夫ですってば。……私もノーマルですから」

 不意を突くその言葉に、翼の体から力が抜けた。忘れていた呼吸が帰ってくる。ノーマル。現人口の1割程度を占める異性愛者を指す言葉だ。だが、一般的な言葉ではない。ノーマルという言葉には同性愛者を“異常”だと差別してきた背景があるとされ、異性愛者は通常の場合“ヘテロ”と呼ばれる。“ヘテロセクシャル”の略だといわれるが、実際のところ“ヘテロフィリア”『異常異性性愛者』の方が意味としては近い。そのような理由でノーマルという言葉は、ヘテロのあいだでしか使われていない。彼女がノーマルだと名乗ったことは、その発言を裏付ける何よりの証拠だった。翼が落ち着いたのを見計らって、井上は翼の隣に腰を下ろした。

「大変でしたね。今木くんがヘテロだっていうのが本当なら、アウティングですもんね」

 デマだとしても悪質ですが。と井上は付け加えた。

 アウティング。本人の意思によらずにセクシャリティが暴露されること。たしかにその通りだ。

「なにがあったか、聞かせてもらえますか?いえ、おおよそ知っているんですが、ひとに話すと感情の整理ができたりしますから。」

 井上の声を聞いて、さきほどまでの恐怖は消えていた。何があったのか、それを話すためには、まずレンの話をしなければいけないだろう。

 **

 中村連、レンは俺の幼馴染で、一番の親友だ。物心ついた頃、いや物心つく前から今まで一緒だった。小さい頃から背が小さくて、引っ込み思案でどちらかといえばおとなしい。ともすれば暴走しがちな俺とは最高のコンビだった。ふたりでいろんなことをしたし、なんでもできると思っていた。クラスには俺たちを、東高校最高のカップルだという声もあったけれど、それを聞くたびに苦笑いしたものだった。男がふたりでいると、すぐに恋人同士だと勘違いする。男同士には、それよりもっと尊い関係があるというのに。そう、思っていた。

「……なんて?」

 目の前には、レンが俺を見上げている。その目は潤んでいる。

 手紙が入っていたのだ。俺のロッカーに。それはいまどきフィクションでも見かけないような、紙の手書きのラブレターだった。差出人の名前はなく、内容は『部活が終わったら校舎裏に』と。手紙に書いてあったとおり校舎裏に向かうと、待っていたのはレンだった。

「僕と、恋人になってくださいっ……」

 聞き返されたレンは絞り出すような声で繰り返した。意識が遠のきそうになるのをこらえる。まさか、レンがそんなことを思っていたなんて、想像もしなかった。

「今まで通り親友じゃ、だめかな?」

 それが俺にできる精一杯の返答だった。一瞬、レンが奥歯を噛みしめるようにしてうつむく。前髪が目を隠す。

「ううん。それで大丈夫!ごめんね」

 顔を上げたレンは笑っていた。そしてレンは俺に背を向けて、走っていった。泣いていたんじゃないか、と思う。

 翌朝のことだった。

「おはよう!」

 いつも通りに教室の扉を開けると、教室の中が静まりかえった。教室にいた全員の視線が刺さる。何かがおきている。

「え、何?どうかし……」

 教室を見渡しながら訊ねかけて、声が止まった。


『今木翼はヘテロ』


 教室の前にある黒板の全面を使ってその文字は書かれていた。黙ったまま黒板消しを手に取る。せっかくの電子黒板なのに、一括消去は教師の権限がないとできないなんて、なんというバッドUIだ。消し終わり、振り返る。背中には視線が刺さり続けていたのに誰も目を合わせようとしない。いつもなら、レンの机に向かいレンと雑談するところだが、昨日の今日だ。大人しく自分の席に向かう。途中にいた生徒は俺が近づくと避けるようにして道を開けた。

(まるで病原体扱いだな)

 俺が席に着くと少しずつ教室が騒がしくなり、表面上はいつもの教室が戻ってきた。だが、変質した空気は放課後まで残り続け、俺と話をしようとするものはいなかった。

 放課後、職員室。

「なんで、ですか」

 対面に座った顧問の菅井は同情のこもった目でこちらを見ていた。ジェットボール部の顧問にしてはひょろりとした体型の中年男性だが、高校時代はインターハイにも出場した経験があるそうで、その采配には俺も信頼を置いている。

「今、君がその……ヘテロじゃないかという噂が流れていてね」

「それでなんで俺が自主休部しなくちゃいけないんですか」

 菅井はため息をつきながら、白髪の混ざり始めた頭を横に振った。

「ジェットボールは男女混成の競技だ。それに接触もある。ヘテロがメンバーにいるとなると、女子部員が不安がるんだよ」

 ジェットボールは平たく言えば、空中で行われるサッカーだ。選手は4機のジェットを腰につけて飛ぶ。そのため、男女の体格による差が出にくく、一般的に男女混合で行われている。

「それは、俺が練習に乗じてわざと女子の体を触るかもしれないってことですか」

「そうは言っていない。君のフェアネスとスポーツマンシップは、私が誰よりも知っているつもりだ。だが、ヘテロはそれが警戒されてもおかしくないということだ。」

 菅井は一呼吸おいて続けた。

「人の噂も七十五日という言葉がある。なに、こんな噂すぐに忘れられるさ。そしたら、君にはしっかり戻ってきてもらう。なんたって君はウチのエースなんだから」

 その言葉がどこまで信じられるか。大会まで時間もないというのに、ブランクがどれほど影響するか。反論の言葉が頭を駆け巡る。けれど

「わかりました」

 口を出たのは従順な返答だった。もしここで強く反発すれば、俺がヘテロであることが疑惑から確信に変わる。

「助かる」

「でも、もし僕が本当にヘテロだったら、すごく傷ついたとおもいますよ」

「すまないね」

 立ち上がり、一礼して職員室を出る。

 荷物が残っている教室に向かい、ゆっくりと歩きだす。着く。扉を通り過ぎる。歩調が上がる。走りだす。B棟西の屋上にだけは、鍵がかかっていないことを俺は知っていた。階段を駆け上がり、扉を開ける。嫌味なくらい青い空が見える。俺は、叫んだ。

「ああぁああぁ!!なんでだ!なんでだよ!」

 **

「ひどい話です」

「全くだ」

 隣に座る井上の言葉に翼は同調した。そこそこ長い話をしたけれど、この時期はまだ日は高い。

「今木くん、提案があります」

「提案?」

 井上の唐突な言葉に、今木は井上の方へ向き直りながら聞き返した。覗き込む井上の顔が想像より近く、心臓が一度強く打った。

「私と、偽の恋人になりませんか?」

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