過去一

 日付がわからない。昼が来て夜が来てまた昼が来て。途方もない繰り返しに気の休まる暇はない。また年は越していないはずだけど、今日が何日なのかわからない。明るいときも暗いときもずっとずっと怖ろしいまま。

 人は眠ることを死に例える。アタシは目覚めるときこそ死ぬときだと思う。眠るだけならまた元の世界に戻ってこられるけど、目覚めるときには夢の世界と永久に別れなければならない。

 決まった寝床がないことは身体が浮いているのと同じように不安定で落ち着かない。鳥だって地上に決まった寝床くらいあるだろうに、アタシは宙に舞っているんだ。今日もこうして朝が来たけれど、今日も明日もその次も全然見えない。だから未来はないのと一緒。

 ここにはあと何時間いられるかな。寒いから外に出たくない。少し前までは夜通し歩き回って時間を潰したりしたけれど、本格的な冬が来てそれも難しくなった。昨日はこのネットカフェに止まったけれど、今日はハンバーガー屋さんにしようかな。にらまれるから嫌なんだけど。しかもゆっくり眠れない。でもお金には限りがある。

 寒い中外にいて生きていられる保証なんてない。命の危機に瀕しているんだ。


 空気が冷たい。ほっぺが氷みたいに冷たくなる。触った顔はかさついていた。肩にぶら下がった荷物はいつも邪魔で重くて最悪だけど、全部必要なものだから捨てられない。捨てたら二度と戻ってこない。アタシってまるでヤドカリね。

 いつかは野垂れ死ぬのかな。貯金がなくなったらこんな生活すら出来なくなるんだ。そうしたら、寒さと飢えで死ぬかもしれない。でもそこまで行くとはどうしても思えなかった。何とかなる気がするというか、神さまがアタシを簡単にお見捨てになるとは思えない。寝る前には毎晩お祈りをしている。すみれで教わったことのうち、それだけはきちんと守っているから、救いはあるんだ。きっと。

 もしなかったらどうしようなんて考えること自体よくない。


 時間はよくわからないけれどもう暗くなってきた。また夜が来てしまう。人混みがみんな駅へ向かっていく。この街に残るのは夜の住人だけなんだろうな。

 そんなことを思っていると、肩を叩かれた。

「すみません、ちょっといいですか」

まさか二日もお風呂に入っていない女に声を掛ける男がいるとは思わなかった。

「交番ってどっちですか?」

「ここをまっすぐ行くと大通りがあって、右に行くと見えると思います」

「お姉さん一人なの? 今暇?」

そういうことか。唾を飲み込んで、言ってみた。

「朝までホテル代ちゃんと出してくれるならいいよ」

男は一瞬停止した。

「え、何、いいの?」

「いいよ」

「ホントに? じゃあ行こう行こう」

 何でもいいからシャワーを浴びたかったし、足を伸ばせるところで眠りたかった。温かい部屋で安心して朝を迎えたかった。

 というのは後付けの理由かもしれない。本当は、自分をもっと不幸にしたかった。とことん不幸になってやるのが運命への当てつけになる気がした。苦しむことを恐れながら、同時に願っている。

 自分から誘ってきたというのに、男は

「いいの? 本当にいいの?」

と何度も困惑気味に尋ねてきた。細身で短い髪を金色に染めた若い男だった。外国の宮殿みたいなホテルの前で、もう一度だけ確認された。

「お姉さん、意味わかってる?」

「わかってるよ」

「俺あんま金ねえからホテル代しか出せねえよ? それでもいい?」

「いい」


 全部終わってからお祈りをしていたら、男は下着を身につけながら、笑っていた。


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