第4話

西日の差し込むリビング。窓を開けてベランダへ出てみる。20階だての11階のマンションは、近くに建物はなく眺めがいい。


窓を閉めてキッチンのほうへ戻り、改めて部屋全体を眺める。


間取りは2LDK。流しの上の申込書にははんこが押してある。


男は一緒にベランダに出てこず、所在なさそうに立っていた。スキニーのデニムに、フレッドペリーのポロシャツ。


「いよいよだね」と私は声をかけただろうか。男の唇が動く。なんと言っているかよく聞き取れない。「え? 聞こえない」……。


* * *


頭を振って映像を止める。ただでさえ荒い呼吸が、はぁはぁと苦しい。口の中が苦い。


見回すとちょっとした広場のようなところに出ていた。人影は変わらず、ない。


スリープ状態だった身体の中で、最初に起動し始めたは耳だった。


ダム、ダム、ダム。


どこかから音が響く。


ダム、ダムダム、ダダム、ダムッ、ダムム。


その音は左手のほうから聞こえてきた。地元の小学校があるようで、広くはないがアスファルトの校庭がある。


ダム、ダム。低い乾いた音。


吸い寄せられるようにして、校庭のフェンスに近づく。誰かいる。


校庭の一角には古びたバスケットゴールが設置されていて、そこで白人男性がバスケットをしていた。


ドリブルをしシュートを放ち、リングからこぼれたボールを拾いに走り、またドリブルをする。ひとりだ。


目を疑った。あまりに驚いたので、とっさに背後を振り返ってしまったほどだ。


え、これなんですか?


気を失うような暑さ、立ってられない熱風。そんな中でなぜ運動を、なぜバスケットを。


あまりにエネルギッシュで暑苦しい身体運動。信じられない。正気とは思えない。


なぜ? 何のために? 暑くないの?


っていうか、いつからやってるの?


あまりのことに、足がふらふらとそちらへ向かう。


開いていた門を通り、アスファルトの校庭を歩いてそのバスケットマンに近づく。


近くで見ると、コートは粗雑なものだった。リングには錆が浮き、ボードはささくれ、ラインもところどころかすれている。ところが、男のプレーは素人目に見ても、俊敏そのものだ。


止まる。瞬時に動き出す。ドリブル、ジャンプ、シュート、リバウンド。


仮想の敵をフェイントで抜き、低い姿勢のままドリブル。レイアップシュート。あえなくリングに弾かれたボールはあさっての方向へ飛んでいこうとするが、瞬間、それを長いリーチでおさえる。


場を落ち着かせるようにボールをつく。ダム、ダダムッ、ダム。


身長は180センチを超えていそうだ。横幅もあるので、丸刈りのヘアスタイルが軍人を想像させる。20歳か25歳そこそこで、遠くで見ていたよりも幼い印象だ。観光客だろうか。


グレーのタンクトップに、黄色のショートパンツ。タンクトップの胸元は汗でぐっしょりと黒くなっている。ピンク色に染まったこめかみから、黄金色の生え際から、汗の玉がしたたり落ちている。


男はほんの一瞬こちらを見た。


が、何も言わずに再びゴールに向かって動き出そうとする。


私はたまらず声をかけた。


「ねえ!」


喉がねばついて、変な声になってしまった。男は動きを止め、ボールを右手に抱え振り向く。


私がラインギリギリまで行くと、ゆっくりと近寄ってきた。


「なに?」


旅先で耳にする英語はいつもそっけなく聞こえる。紅潮した頬とつきだした額。腕は棍棒のように太い。


「いや、あの…。バスケしてるんだね」


「うん」


「暑いのに?」


「うん」


「暑くないの?」


「暑い」


「それなのに、どうして?」


「え?」


 男は右手から左手にボールを持ち替える。


「あ、どうして、バスケしてるの? 旅行者だよね? 選手かなにかで、試合に向けて練習してるとか?」


「習慣だから」


「へ?」


「習慣だから。毎日バスケしないと、気持ち悪くて」


「習慣」


 habit。口に出して繰り返してみても、胸の中で反芻してみても、まったく意味が頭に入ってこない。


「そう。毎日30分はやらないと、気持ち悪くて」


「えっと、そうなんだ」


「うん。ホテルの受付の人に『この辺でバスケできるところないか』って聞いたらここを教えてもらった。『バスケット? 今、気温46度ですよ?』って呆れられた」男は肩をすくめる。


「私なんて歩くのもしんどくて。だからびっくりしちゃったよ、バスケやってる人いたから」


「うん、こんな暑さの中で下手に出歩くと危ない。一緒に来た彼女も部屋で休んでる」


真顔でそう答えると、男は左手のままボールを3度ついた。ダム、ダム、ダム。右手に戻す。しゅるるっと手の中で回転させる。


そばかすだらけの手の甲が、小さな生き物のように自在に動く。茶色い皮のボールは、使い込まれていて白いけばに覆われている。


「やる?」


突如、男はつかんだボールを私に向かってつきだしてきた。え?


「え?」


「バスケ。やらない?」


「は? 何を言ってるの?」


「やってみなよ」少しだけ眉をぴくりと上げた。


全力でのけぞり、目の前で手を振る。「いやいや。冗談でしょ」


男は笑うでもなく怒るでもなく、まったく表情を変えない。


ボールをつきだしたまま、小さくうなずく。まるで「だいじょうぶだ」とでも言わんばかりに。


「へ?」また、バカみたいな声が出た。

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