無花果の匣

宮古遠




          一



 その死体は――捻れていた。

 ベッドの上の彼は、さも『己の死を喜んでいる』というような恍惚の表情を我々に示して、毒素の中に死んだ線虫のように捻れ、息絶えていた。それはある種、美術館に展示された、奇妙な外見故に人々の関心を呼ぶ、独創的な青銅彫像の様相を呈していた。

 ベッドのシーツは乱れ、汗ばみ、波間には精液と愛液がまとわりついている。故に男は『捻れる』前、ある女と、散々『行為』に耽っていたらしいことが判った。


 ふと、台座の上へ目をやると、そこにはなにやら、仰々しい装飾の施された匣があった。しかしそれは、土を入れられ、鉢植えと化し、そして、その中に何らかの植物が植え付けられていた。それは既に枯れ果てて、力なく台座の上に撓垂れている。

 なにかの花だろうか、とわたしは思った。が、わたしはその葉の形相に、あまり親しみを覚えなかった。むしろ、こんなものは見たことが無い。

 方々へ延びきった葉は、どこか刺々しく見え、そうした葉の真ん中から、太く、産毛を大量に生やした茎が延び、中ほどで折れ曲がっている。その立ち姿は、周囲の葉の枯姿と相まって、どうにもおどろおどろしい雰囲気をその場に造り出していた。


「う、ぇう……ッ」


 突然、咽びとも喘ぎとも判らぬ声を出して、一人の若い巡査が、部屋を飛び出した。そして「すみません」と謝りながら、彼は近くの茂みへ頽れ――吐いた。

 新米の彼に、この現場は少し刺激が強すぎる。正直云って、世間の人よりは色々な死体を見てきた私でさえ、あまり気分の良いものではない。

 私は思い直すと、ひとまず男の『捻じれた』死体を、上から下まで舐めるように眺めた。すると、捻じれた男の手の中に、卵ほどの大きさの物体が、確かな膨らみをもって、なにやら握り込まれているらしかった。故にわたしは、現場で作業をする鑑識の一人に、声を掛けた。


「君。ちょっと」


 わたしの声に、背の低い、黒縁眼鏡を掛けた短髪の男が応じ、わたしの側へやってきた。

 わたしは男の手を示すと、「こいつは何か握りこんでいるらしい」と伝えた。

 捻れ死んだ男の手は、丁度、旅行鞄の取手のように飛び出して、固まっている。


「開けてみましょう」


 鑑識は、男の指を、自分の目線の前へ据えると、一本、また一本、というように、糸の絡まりを解すようにして、男の指を紐解いていった。


「――なんだ」


 思いもよらぬものだったのか、鑑識は一声、呟いた。声に応じ、わたしもねじれ死んだ男の掌を覗いてみた。見るとそれは、どうにも気味の悪い、なんとも不気味な色味をした――たわわに実る『果実』だった。


「なにかの、実か」

「さあ。……」


 鑑識は、溜息まじりに、疑問符を浮かべた。


 ――この、枯草の実だろうか。


 そうしてわたしたちは、じっと果実を見つめたまま、暫く黙り込んでしまった。然しわたしは、或る女がこうした事象に詳しい事を、思い出した。


 ――城南大学生物学准教授、松永響子。

 ――あいつならなにか、判るやもしれない。


 わたしはそう思うと、鑑識の男に断りを入れ、すぐさま、折りたたみ携帯の名簿から『松永』の名を見つけだし、電話を掛けた。


 …………

 一回。

 …………

 二回。

 ……、


「ン――な、な」


 三回目にして、ようやく吐息まじりに、非常に不機嫌な、今まさに目覚めたというしわがれ声で、松永はわたしに返事をした。


「……起きたか」

「んン。――ん。ん。……んん」

「…………起きたんだろうな」


 然し、未だ彼女は寝ぼけているのか、反応がどうにも鈍重である。いつもならば直ぐにでも、わたしへの罵声が、とんできそうなものであるのに。


「松永。あのなあ。ちょっとお前に頼みごとがあるんだが」

「たのみごとぉ。……」


 彼女はあからさまに語尾を上げ、斜めに口を開けた、面倒くさそうな調子で唸った。

 然し、


「――なによ」


 と、直ぐさま、わたしの要件を聞き入れうる体勢となってくれた。どうにも、一応わたしは話を聞いてもらえるらしい。故に、わたしは『捻じれ死んだ』男の現場で発見された不気味な『果実』の事を、彼女に伝えた。


「わかった。それをやればいいワケね。りょーかい。後で色々送っといて、判ったらまた、折り返すから」

「ん。頼む」


 依頼を承諾しながらも、彼女はやはり、どこか面倒くさそうな声色だった。

 するとやはり、「貴方」と云って、


「こういう断り辛いときに電話掛けてくんの、止めてくれる」

「すまん。……ま、そういう訳だから。宜しく頼む」

「どうせいっつも便利係ですよ、わたしは」

「なんか云ったか」

「云ったのはそっちだろうさ」

「切るぞ」

「きれろ、バカ」 

「…………」


 わたしは電話を切ると、一足先に、この、鬱蒼とした一室から這い出した。妖怪じみた、捻れた死体の棲まう巣窟を、後にして。


   ×   ×   ×


 こうして本件を担当する事になったわたしは、雨の中、アパートの軒下で、一人、煙草を吹かし続けていた。そして、規制線の向う側、餌を求める鯉のように群がる野次馬どもを眺めながら、「これはどうにも、面倒な事になりそうだ」と思った。

 すると、そんなわたしを、ある男が弱々しい声で呼んだ。


「――真田さん」


 見るとそれは、先ほど己の吐瀉物故に、必死に外へと逃げ出した、青木巡査であった。

 青木はようやく落ち着いたのか、わたしに少し笑みを見せた。が、彼の袖口は胃液で染みていたし、仕立てたばかりの制服も、雨に濡れ、その背に、歪な斑模様を造り出している。


「すみません。……おれ」

「気にするな。わたしだって初めてみる。あんな、気味の悪いヤツは。……」

「……う」


 青木は頷くと、また、その場面を思い出したのか、少しえずいた。そして、


「……僕も一本、いいですか」 

「ああ」


 私は応じ、胸ポケットからひしゃげた箱を取り出すと、一本の煙草を彼に示した。「ありがとうございます」と彼は云った。そうして青木は、切れ切れに煙を吸い込み、煙草の先端に、赤い輪を灯すと、その後はゆっくりと深く煙を吸い込み、苛む心を落ち着けるように吐きだした。

 雨音は穏やかに、辺り一面を包んでゆく。その中に、現場を調べるシャッター音や、捜査官、野次馬等のざわめきが、ひとつひとつ存在を示し、入り交じってゆく。

 然し――わたしはそうした喧騒と静寂の中に、ある、異様な性質で持って、私にその存在を知らしめた、ひとつの揺らめきを目撃した。


 其れは――女だった。


 女は野次馬達の中、ただ一人傘を差さずにいた。そうして女は雨に濡れ、だらんと腕を垂らしたままに、どこか呆然とした様子で、焦点の合わぬ目が、じっとこちらを見つめている。

 その髪は黒く、長かった。ゆったりとしたワンピースは、女の身体へ粘り付くと、波紋を帯びた布地の下に、桜色をした肌を透けさせ、しっかりと女の肉のうねりを、そこに浮かび上げてゆく。どこか上気し火照った肩は、ずれかかる肩紐をじっと繋ぎ止め、艶めく感情を帯びるままに、口元はほころび、開いていた。

 わたしは灰が落ちる事にも気付かず、じっと食い入るように、女を見つめていた。

 だがわたしは、


「もしやあの女は、男の情婦ではあるまいか」


 と思うや、慌てて煙草を灰皿へ詰め、野次馬の波を乗り越えると、急ぎ女の場所へと駆けた。

 然し、わたしがそこへ着いた頃には、もう、どこにも女の姿は無かった。消えてしまった。


「今のは。……」


 わたしは少し膝に手をつき、息を切らし、どうにか女を見つけ出そうと、ミミズクのように辺りを見廻した。そこへ遅れて青木が駆けつけてくる。


「真田さんどうしたんです。いったい、なにを見たっていうんです」 


 ――覗き込んだ気がしたのだ。

 ――雨に濡れた女の瞳。

 ――その、翡翠色をした、女の、淡く美しい瞳を……。


 これがわたしと女――イチカワアヤコの出会いであった。




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