【書籍試し読み】宵の国戦記1 最強の暗黒騎士は平穏に暮らしたい

長月東葭/DRAGON NOVELS

第1話 〈宵の国〉と〈明けの国〉①

 開け放たれた窓から、そよ風が吹き込んだ。


 遠く山脈から降りてくる心地よい風に頬を撫でられると、眠気など消し飛び、意識も冴える。


 室内には風に運ばれた新緑の香りが漂っていて、インクの匂いと混ざり合い、鼻腔をくすぐった。


 高級木材で作られた椅子に身を預け、広々とした執務机に向き合いながら、昼下がりの空気を胸一杯に吸い込む――それが、その男のお気に入りだった。


 使い慣れたペンは今日も手によくなじみ、紙面の上をすらすらと淀みなく滑っていく。


 ――ああ、仕事は順調だ。大きな問題もなく、ほどよい緊張感が気持ちを引き締めてくれる。


 トントンと、ノックが聞こえた。その音は楽器のように美しく、執務室の静寂に花を添える。


「開いているぞ、入れ」


 書き仕事をしていたペンを置き、顔を上げた男が扉に向かって言った。


「失礼します」


 一拍の間を置いてから、扉の向こうから声が聞こえ、男の見ている先でドアノブが静かに回った。


「お茶をお持ちしました」


 少年のような若々しい声を発しながら、盆の上にティーセットを載せた人影が姿を現す。


「ああ、ありがとう。もうそんな時間か」


 男が懐中時計を取り出し、風防を開けて確かめると、時刻は午後三時を回っていた。


「ご休憩なさってください。どうぞ」


 カップを受け取り、ハーブティーが注がれる。ほっとする香りに、気持ちが綻ぶ。


 ――ああ、私は良い部下たちに恵まれた。率先して仕事をこなし、よく気がついてもくれる。お陰で私も自分の職務に専念できる。


「あと三時間で昼勤は終業だ。いつも言っているが、残業はしないように。質の良い休息を取ってこそ、質の良い仕事と職責を全うできるというものだ」


「はい、心得ております」


 ゆっくりと頷いてみせる部下との間に、男は確かな信頼関係を感じた。


 それは充実した、穏やかな一日だった。男は肩から力を抜き、ゆっくりとカップに口を付ける。


 ――ああ、何も問題はない。穏やかなこの場所が、この生活こそが、私の求めた理想の日々だ。


 ハーブティーを口に含むと、時間がゆっくりと過ぎていく。


 そして唐突に空気を震わせた甲高い笛の音が、それまでの理想的な光景を幻のように消し去った。


「ぶっ!?」


 飲み込みかけていたハーブティーが気管に入り込み、男が思わずむせ返る。


「四番警笛……〈明けの国〉側の国境侵犯を確認しました」


 警笛の聞こえた方に顔を向けた部下が、淡々とした声で告げ、男を振り返る。


「? どうされましたか、ゴーダ様。お顔が汚れておいでですが」


「……いや、何でもない。気にするな」


 顔面を茶まみれにしながら、部下からゴーダと呼ばれた男が仏頂面で言った。


 そこに追い打ちをかけるように、カーンッカーンッと鐘の音がけたたましく鳴り響く。


「一番警鐘……敵襲です。〈明けの国騎士団〉と思われます」


 濡れた顔をハンカチで拭きながら、ゴーダの目許がぴくりと引き攣った。


「……ベルクト、そこから外の様子が見えるか?」


「お待ちを」


 ベルクトと呼ばれた部下が、ゴーダに促されて外を見やる。


「この位置から視認しました。距離、五百。構成は歩兵二百。騎馬は認められません。国境侵犯後も反転の兆候なし。こちらに向けて一直線に前進中です」


「……やれやれ、参るな……全くしつこい連中だ」


 カップが皿の上にカチャリと置き直され、ゴーダがその場にゆっくりと立ち上がった。


「ご指示を、ゴーダ様」


「各騎に武装指示。戦闘準備完了後、別途指示あるまで待機。非番の者は下がっているよう伝えろ」


 穏やかな昼下がりの幻想を壊されたゴーダの声音が、有無を言わせぬ上官のそれに様変わりした。


「承知いたしました。五分あれば十分です」


 ベルクトが改めて姿勢を正し、踵を揃えながら事務的な声で応じた。


「先に行っていて構わんぞ、ベルクト」


「いえ、ここでお待ちいたします」


 身支度するゴーダの言葉に対して、間を置かずにベルクトが即答する。


「相変わらず律儀な奴だな、お前は。……ん? はて、どこへ置いたか……」


「こちらをお探しでしょうか」


 ベルクトがすかさず、両手に載せたそれを恭しく持ち上げてみせた。


 それを見て、ゴーダが思わず口許を緩める。


「全く、お前たちはよくできた部下だよ、本当に」


「恐れ入ります」


 入り口で待つベルクトの下にゴーダが歩み寄り、その姿が影の中から陽だまりの下へと現れた。


 ゴーダは、黒い甲冑を纏っていた。それは部下であるベルクトの鎧一式と同じ造りをしている。地位の高さを示すように、彼の甲冑にだけ金色の文様細工が追加であしらわれている。


 律儀にすべての装具を纏うベルクトとは違って、ゴーダはまだ兜までは被っていない。髪は鴉の羽根のように真っ黒で、青年の顔立ちをしているが、瞳には歳を重ねて達観したような色がある。


 見かけと眼光がえらく不釣り合いな、ともすると近寄りがたい寡黙な空気を纏った男だった。


「どうぞ、お取り下さい。我らが主よ」


 目の前に立ったゴーダに対して、ベルクトが両手を捧げるように前に出した。


「うむ」


 体現された忠義に応えるようにして、ゴーダがベルクトに手を伸ばす。


 ゴーダの掴んだ手の中には、鞘に収められた片刃剣が――彼が〈カタナ〉と呼ぶ武器があった。


「〈宵の国〉にその名を轟かせる暗黒騎士――やはり、筆をお持ちになっているよりも、そのお姿の方が似合っておいでです、ゴーダ様」


 ゴーダよりも頭一つ背の低いベルクトが、主をじっと見上げて畏敬の念を込めて呟いた。


「この姿を晒さずに済むのなら、それが一番なのだがな」


 ゴーダは肩を竦めてみせると、一歩前に踏み出した。


「では、行くとしよう――我らが本業、〈宵の国〉防衛のお仕事の時間だ。定刻で片付けるぞ」


 二人の黒い騎士が、執務室から通路に出る。そこは黒い石で築き上げられた、堅牢な城塞だった。


「出陣せよ、〈イヅの騎兵隊〉」

 

 ***

 

 ――〈宵の国〉東方。ゴーダ率いる〈イヅの騎兵隊〉が統括地、〈イヅの大平原〉。


 黒い鎧姿の〈イヅの騎兵隊〉が展開したその先には、銀に輝く甲冑を纏った集団が――ゴーダたちが〈明けの国騎士団〉と呼んだ軍隊が陣取っていた。


「〈明けの国〉の兵よ。当方は〈宵の国〉東の守護を仰せつかる、〈イヅの騎兵隊〉である。貴軍は国境を侵している。早々に立ち去られよ」


 ゴーダが国境侵犯者に警告した。彼を筆頭に陣形を作る〈イヅの騎兵隊〉の兵数は、五十余騎。


 対する〈明けの国騎士団〉の兵力は、少なく見ても二百はゆうに超えている。


「その立ち振る舞い、〈イヅの騎兵隊〉が大将とお見受けいたす」


 銀の甲冑がずらりと横並びになり壁となっているその只中から、貫禄ある太い声が聞こえた。


 銀の騎士たちが隊列を二つに割り、そこにできた道を通って三人の騎士が前に出る。


 一人は、周囲の歩兵と同じ、装飾を排した簡素な造りの銀の甲冑を纏った騎士だった。背中には長い柄の斧槍を一本担ぎ、それとは別に太い弦をたすき掛けにして大弓を背負っている。


 もう一人の騎士は、過度な意匠の施された銀の鎧を着ている。狼の頭部を模した左右の肩当て。兜にも狼の装飾があって、顔面を保護するバイザーがちょうど狼の口に見えるようになっていた。


 そして三人目の騎士は、とりわけ異彩を放っている。銀鎧に象徴される集団の中で、中央に立つその騎士だけは、深い蒼色の鎧姿。他の兵とは明らかに、位も戦力も突出していることが覗えた。


「某、〈明けの国〉に仕える騎士が一人、デミロフと申す者」


 たった一人だけ蒼い鎧を帯びているデミロフが、ゴーダの口上に応えるように一歩前に歩み出る。


「この地を閉ざす貴殿と相見えるには、こうするより他ありませなんだ。手荒な真似を許されよ」


「ふむ……なかなかどうして、礼儀をわきまえておられる御仁のようだ」


 感心するように、ゴーダが頷く。しかしその手は、腰に吊した鞘にかけられたままだった。


「てっきり、野盗か何かかと。このところ時折、見かけるものでね――草木に隠れてじっとこちらを見ている輩、闇夜に紛れてこそこそしている者ども、そういうものを。てっきり連中かと思い、仰々しく出てきてしまった。気分を害されていなくばよいが」


 頭を下げたままのデミロフだったが、ゴーダの言葉を聞いて、ゆらと視線を持ち上げた。


「ほぉ……野盗でありますかな。物騒なものですな」


「全くその通り。貴国も気をつけた方がよいだろう……そういえば、その野盗は随分と充実した装備を揃えていた。手入れされた剣、新品の矢、早馬も持っていたな。後は……ああ、そうだ、ちょうど貴軍らのような、大層立派な銀の鎧も着込んでいた。近頃の野盗は、随分と懐が暖かいらしい」


 そう言いながら、ゴーダが何でもないというふうに肩を竦めてみせた。


「その輩とやらに気付いていながら、警告もせず逆に観察していたというわけですかな?」


「そんなところであろうかね。覗き者を覗き返したところで、誰も咎めはしまい」


「これは全く……人の悪いお方ですな」


「生憎と、人間嫌いでね、私は」


 もう一度、ゴーダがとぼけるように肩を竦めた。


「さて、貴軍と情報も共有できた。これで賊が減ることを祈ろう。お引き取り願おうか……」


 それだけ言うと、ゴーダはくるりと身を翻して、デミロフたちを尻目に城塞の方向へ歩き始めた。


 耳元で鋭い風切り音が聞こえたのは、その瞬間だった。


「ゴーダ様!……おのれ……っ!」


「ベルクト、押さえろ」


 放たれた矢が兜を掠めた直後にあって、しかしゴーダは一切声音を変えることなく部下を鎮めた。


「……去れ、と。私はそう言ったつもりだったのだが、聞こえなかったか?」

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