女主人、動く
廊下を歩きながら、三音子は半歩後ろを
今度は、三音子が鏡壱少年を追うような形になって、廊下の奥にある折れ階段を地下へ向かって降りて行く。
この『岬の赤レンガ屋敷』は、母屋と
青いセダンのエンジンには既に火が入っていて、バラッ、バラッと音を立てて回っていた。他に、幌付きトラックも格納されているが、こちらのエンジンは冷えたままだ。
車庫の中は電灯が
運転席から鏡壱が出て来て、三音子の後ろに回り、地下道へ通じる扉の鍵を
「暖気にはどのくらい掛かりそうだい?」三音子が鏡壱に
鏡壱が指を三本立てて見せた。
「三分か……動けるようになったら、玄関へ回しておくれ。私は一足先に玄関へ行って、
主婦の言葉に、少年運転手が
「それじゃ、戸を開けて」
鏡壱が再び頷き、頑丈な鋼鉄製の車輪付き引き戸を、重い
外の冷気が、車庫の中へ流れ込んだ。
車庫には暖房が通っていないから、もとより庫内の温度は外気とさして変わらないが、空気が動いた分だけ、肌から体温が奪われる。
三音子は寒さを
雪の上に踏み出して初めて、自分が室内ばきのスリッパのまま来てしまった事に気づいた。
「おや、私としたことが、飛んだ間抜けをやっちまった……が、まあ仕方ない」
スリッパのまま、ザクザクと雪を踏んで玄関へ向かう。
向こうから、化物の美男がカシミヤの
「おっと! 待ちな! それ以上、近づくんじゃないよ!」
自動拳銃を前へ突き出して、三音子が大声で叫ぶ。
男の足がピタリと止まった。
三音子は、銃口を男に向けたまま、半円を描くように一定距離を保って玄関まで歩いた。
玄関扉の
女中の富喜子がこちらを見ていた。
「あっ、奥様」
富喜子の構えるライフルの銃口が、どこを狙えば良いのか分からない、というようにウロウロと動いた。
「
「それが……消えてしまったんです……どこにも居ません」
「消えたって? ええいチクショウ、またかい……」毒づいて、三音子は化物男の方を見た。
「あれは一種の幻……妻の幻だ」男が言った。
「妻? それじゃ、あの白い着物の幽霊が奥方だって言うのか?」
三音子の問いかけに、カシミヤを着た化物男が
「妻の能力の一つだ。だが
切羽詰まった様子で、男が一歩、三音子へ近づく。
「動くな!」叫ぶ三音子。
化物男がピタリと止まる。
女主人が、化物男に続けて言った。「お望み通り、助けてやるよ」
「ありがとう」化物男が頭を下げる。
「ただし、妙な真似をしたら承知しない」
屋敷の女主人は、化物男へ注意を向けながら、玄関の
「富喜坊、こっちへ来な……それから、いい加減、銃口を私へ向けるのは
女中の富喜坊、銃を降ろして、恐る恐る玄関へ近づいて来る。
「いいか……」鉄格子入りの分厚いガラス越しに、主人が女中に言った。「私と鏡壱は、あの化物の奥方とやらを助けに行って来る」
「し、信じるのですか? 化物の言うことを?」
「ああ……まったく、我ながら妙な仏心が芽生えちまったもんだ……富喜坊には留守番を頼むよ。ボイラーを炊いて屋敷を暑いくらいにしておくんだ……あの化物紳士、奥方が
「あの……先生には、連絡しますか?」
指示を仰ぐ女中の言葉に、三音子は
「……いや……」考えた末、首を横に振る。「
「分かりました」
「それじゃあ、頼んだよ」
「あの……」
「何だい?」
「ゆ、幽霊は、もう現れないでしょうか? 留守番のあいだ
「さてね。あの化物の旦那が言うには、もう奥方の幻は出ないような感じだったけど」
「奥方? あの幽霊って、化物の奥さんなんですか?」
「
その時、三音子の立っている玄関を
目を細めて光の方を見ると、
青色のセダンは、雪の上にタイヤの跡を付けながら、化物男の横を通り過ぎ、屋敷の正面で停車した。
いったんエンジンを止め、点火回路の鍵を抜いて、運転手の鏡壱が
「乗りな。助けてあげるよ……凍えそうな美人の奥様とやらの居る所へ案内するんだ。嘘だったら承知しないからね」
「すまない……ありがとう……ありがとうございます」化物の紳士が再び頭を下げた。
「良いから、乗りなよ」なぜか気まずくなって、三音子は拳銃を振った。
化物がセダンの後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
身長百九十センチはあろうかという大男。太っているわけではないが、全身を覆う筋肉は分厚い。
自動車のサスペンションが、ギシリッと沈んだ。
続いて、三音子が化物の反対側に回り、鏡壱の開けてくれたドアから後部座席へ乗り込む。
「変な真似するんじゃないよ」隣に座る化物の脇腹にピストルを突きつけ、三音子が言った。
「分かっている。信用してください」と化物紳士。車内に響く、渋いバリトンの声。
狭い後部座席、肩が触れるほど近くに座る化物男と年増女。
三音子は、あらためて間近で男の顔を見た。
マフラーで顔の下半分を覆ってさえいれば、本当に惚れ惚れするような
顔だけじゃない。
百九十センチ位はありそうな大男なのに、その身のこなし所作振る舞い、なんだか繊細で
年甲斐もなく心臓が高鳴り
(ば、馬鹿っ、相手は化物なんだっ、なに娘っ子みたいに赤くなってンだよ!)口に出さず自分自身に毒づくが、一度高くなった心臓の音は、なかなか収まってくれない。
(
運転席に鏡壱が収まり、鍵を差してエンジンに火を入れた。
「さあ、
(まったく……妙な冒険心なんか起こしちまって……私ゃ、悪い女だよ)
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