一ページノベル

乃海茜音(なみ あかね)

先輩と僕

   冬の夜、さよならと告げた


 手袋をも貫く冷たさが手を芯から凍らせる。貴女の赤いマフラーが温かい。まるで世界に僕一人のようだ。ホームには誰もいない。僕のほかには。雪の降る音さえ聞こえそうな。そんな空気を吸っていた。


「……ありがとね、見送り。来てくれて」

「いえ…。僕が見送りたかっただけですから。」

 先輩の乗る電車までは少し時間があった。もともと本数の多い路線ではない。

 沈黙を作らないように、話をつづけた。無理があったけど、黙ってしまうと、そのまま声を出せなくなると思った。

 僕が先輩の方を向くと、応えて微笑んでくれた。いつもと変わらないはずの微笑みが違って見えた。きっと今日は眼鏡をかけていないからだ。そう思ってなんでもない話をした。

 好きなお菓子の話。部誌に書いた落書きが実は僕のものだった話。好きなパスタの話。先輩の彼氏の話。サークルの楽しかったことの話。猫の話。先輩の好きな歌の話。先輩のバイト先の話。僕がサークルに入った理由の話。先輩が音楽を好きな理由の話。明日死ぬなら何をしたいかなんて話。

 ホームにアナウンスが響く。声が出せなくなって、線路の方を向いた。先輩はすこしうつむいたと思う。一瞬だけ。横目で見ていたから、分からないけれど。

 先輩は立ち上がり、キャリーバッグを引きずる。黄色い線の内側に並んだ。

「へっくしっ」

 ふいにくしゃみが出た。マフラーを家に忘れてきたことを思い出した。月の光では体は暖まらない。見上げると月が綺麗だった。考え事をすると空を見上げるのは僕の癖だ。まだ声は出なかった。

 きみのほうが必要そうだね、と言って先輩が赤いマフラーをほどいた。その手で僕の首にマフラーを巻き付けた。先輩の匂いがして、胸が苦しくなる。視界がぼやけてきた。吐きたくなるほど苦しい思いがする。ひたすらマフラーにしがみついて涙をこぼさないように前を向いた。

 線路の金属が響いて電車の到着を教える。どうか通り過ぎてくれないかと最後の願いを心の中で絞り出した。電車はゆっくりと速度を落とし、停車すると、扉が開いた。

 電車に乗り込んだ彼女は、いつもの笑顔で

「ありがとう、行ってくるね」

 と言った。はい、と言ったつもりだが、声になっていただろうか。彼女を乗せた電車はまもなく扉を閉じて、動き出した。彼女の姿を目で追うが、じきに見えなくなった。

 何も見えない暗闇に、たださよならとだけ告げた。

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