第22話 涙の向こうの愛おしさ

 土方は私を背負ったまま峠を越えた。そして、私達は二日遅れで日野に入った。


「トシ! 無事だったか」

「すみません。援軍が叶いませんでした」

「いや、いいんだ。とにかく今後のことを話そう」

「はい」


 近藤は待ちくたびれていたのか、土方を休ませることもなく部屋に連れて行った。


「鉄之助! よかった、生きていたか」

「皆さん遅くなりまっ……ちょ、ちょっと原田、先生っ」


 私の顔を見るなり原田は手を広げ私を抱き込んでしまった。大きな熊に捕らわれた獲物状態だ。ぎゅうぎゅう締め付けて離そうとしない。


「おい左之助。鉄之助が死んじまうぞ」


 引き離してくれたのは永倉だった。その後ろから山口もやってきて「原田は相変わらずだな」と呆れていた。原田は私の顔を近くでじいっと見たり、頬を触ったり、肩や背中を撫でたりする。


「なんですか、原田先生っ」

「怪我してねえか見てるんだろうが、じっとしていろ」

「大丈夫ですよ。副長にみてもらいましたし、楽させてもらいましたので」

「副長って、土方さんがっ」

「はい。骨も折れてないし、それでも気にして背負って峠を越えてくださいましたよ」

「はっ、嘘だろう……あの、土方さんが、鉄之助を……あ゛あ゛あ゛――」


 何故か原田は頭を抱えて屈み込んでしまった。それを見た永倉と山口はため息をつく。


「え、原田先生」

「鉄之助。気にすることはない。それより少し休め、部屋がある」


 永倉が原田の肩を叩きながら何やら慰めの言葉を掛けている。そんな二人を無視するように山口が私に休めと促した。戻って早々、何やら分からない展開だが体はまだ本調子ではなかったので、おとなしく山口に従った。


「明日にもここを立つだろう。今のうちに休んでおけ」

「ありがとうございます」

「ん、その刀は」

「あっ……。その、これは」

「総司が、あんたに託したのか。もう我々の前には姿を現さぬのかもしれんな」

「えっ」


 山口は何かを悟ったようにそう言った。あの戦いのさなか、命より大事な刀を自ら手放すのはそう言うことなのだと。


「総司はもう戦えないと知っていたのだろう。負け戦と分かった上で合流し、無理の利かない体で戦った。己の信じるものの為に。しかしそれも叶わぬと知って退くことを決めた。足手まといになりたくなかったからだ。せめて心だけでも残そうと、その刀をあんたに託した。この先の戦も共にあろう、と」

「沖田先生はどこにいったのでしょうか」


 山口は私から視線を外し、遠くを見ながら言う。総司は猫のような男だからなと。


「どういうことでしょうか!」


 意味を理解できず問いかけた私に視線を戻した山口が口を開いた。


「死に様は人に見せぬと言うことだ」

「そ、そんな」


 山口はそれ以上は何も言わず、静かに部屋を出て行った。沖田は一人でこの世を旅立つつもりでいるのだろうか。あの薬もいずれ効かなくなるだろうし、咳をするたびに体は酷く痛むはずだ。誰に世話をされるでもなく、一人で……。


「何ということなの」


 私は沖田の愛刀を抱きしめて咽び泣いた。戦場で死ぬこともできず、皆に迷惑をかけぬために離隊していった。誰にも別れを告げることもなく、恐らく近藤にも。どんな思いで沖田は去っていったのか。


「私のような力のない人間にっ、このような立派な刀を……う、うぅ」


 抱きしめた刀は冷たく何も答えてはくれない。沖田の気持ちも代弁することはない。この刀はどの隊士よりも多くの人間の血を吸ってきた。事実はそれだけ。人の手を渡りたどり着いたのが私だなんて、胸が張り裂けそうだった。


 人は薄情な生き物である。疲労には勝てずに、私はそのまま眠ってしまった。





『鉄之助くんは死なない気がするんだ。この戦を、最後の最後まで見ると思う。君の隣には子供っぽいあの人が居てね、きっと君に我儘を言って困らせると思うよ。残念だけどそれが君の運命さ。子供で怒りっぽいあの人のこと、宜しくしてあげて。僕はそれを笑いながら見ているから。新しい時代は待ってはくれないよ。だから、君の信じる道を行けばいい――がんばってよ、常葉ちゃん』





 はっとして眼を開けた。心の中にほんのりと残る切なさはなんだろう。悲しみに包まれて寝たせいだろうか。私はゆっくりと体を起こした。辺りは真っ暗で夜が更けたのだと知った。静まり返っているから皆も休んでいるのだろう。私は厠へ行こうと廊下に出た。


「寒っ」


 昨晩は土方と野宿をしたのに寒さなんて感じなかった。土方の体温に包まれていたお陰かもしれない。人と会わないように急ぎで厠での用を済ませた。行きには気づかなかった帰りの廊下で、部屋に灯がともっているのが分かった。まさかと思い、隙間から覗くとそこに居たのはやはり土方だった。夕べもほとんど寝ていないはずなのに、今もこうして起きている。副長という立場はこうまで忙しいのか。相変わらず私には何もできないという虚しさに苛まれながら、その場を離れようとした。


「テツ」

「は、はい」


 土方は私の気配を察したのか低い声で私を呼んだ。


「突っ立てねえで入れ」

「はい。失礼、します」


 障子を開けると土方が入ってくる私をじっと見ていた。書物かきものをしていたのか、小さな文机の前に座っていた。いつも見る眉間のしわはなかった。


「体はどうだ」

「お陰様で、随分と楽になりました」

「そうか」


 私は泣き腫らしたせいもあり、まともに土方の顔を見ることができなかった。畳のへりをじっと見ていると、土方が動く気配がした。土方の膝が視界に入る。


「そんなに辛いか」

「え」


 土方は私の顎を指で掬い上げた。意志の強い土方の眼が私を見ている。反対の手が私の頬を撫で親指の腹で目尻をなぞった。


「辛ければ、このまま離隊しても構わない。辰之助も江戸で消えた。なに、怒っているわけじゃない。お前はまだ若い、好きに生きていい」

「なぜっ。私は新選組にいるのが辛いわけではありませんっ」

「新選組は近く分裂する。新政府軍との戦いもまだ終わりは見えない。お前は俺といるべきでは」

「副長! 嫌です。私は私の意志でここに居るのです。去りたければとっくの昔に去っていますよ。お願いですから、そんなこと言わないでください」


 私は額を畳に押し付けた。今、土方から離れれば私の存在は何だったのかと路頭に迷うだけだ。


「辛いのは、副長に愛想尽かされることです。色々なことが起きて確かに辛いと思うこともあります。でも、いちばん辛いのは、副長から」

「テツ、頭を上げろ」


 私は言われるがままに頭を上げた。そこにあったのは厳しい顔の土方ではなく、僅かに眉を下げたとても困った顔だった。


「いいんだな、それで。今後一切、こんな機会はない。逃げる者は例えお前でも……斬る」

「っ、はい。私は最後まで副長と共に居ます!」

「俺がお前に、こんなことをしてもその気持ちは、変わらねえんだな」

「どんなこと……あっ」


 土方が私を引き寄せて横抱きにした。何をするのかと考える前に土方の顔が降りてきた。唇が重なったのだ。何度目か分からない土方の口づけは、徐々に深くなった。土方の舌が私の口内に滑り込んできて、這い回る。それはこれまでのどの口吸いよりも熱い。


「んっ、ふ」


 慌てて息を吸うと、優しく頬を撫でられた。そして、胸の釦が外される。


「んっ、んんんっ」


 土方は慣れた手つきで釦を外し、きつく締めたはずのさらしまで緩めた。こんな事をしてもとは、これからしようとする何かなのだろうか。


「ふ、ふくちょ……」

「嫌なら押し退けて出ていけよ」

「出て、行きませっ」

「名前は」

「な、名前」

「鉄之助じゃない、本当の名前があるだろ……それとも俺には言えねえか」


 土方は私の本当の名前を問うているのだと、やっと理解する。土方は私の本当の名を呼んでくれるのだろうか。脳よりも心が先に期待で溢れて、私の心臓は煩く走り出す。


「お前、月のものは来たのか」

「な、なぜそんなことっ」

「やはり来ていたか。女の匂いが、する」

「ごめんなさい。私っ、どうしたら」

「だから、新選組から離れろと言ったんだ」

「嫌です!」

「ばか野郎だな。俺も、お前も」


 土方はそう言うと、私の体をぎゅうっと抱き締めて、顔を埋めるようにした。それを見て私は、恐怖ではない別の感情が湧き上がる。


 土方が愛おしい、と。


 私は無意識にその頭を抱きしめ返して囁いた。私の名は常葉ときわと申します、と。

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