第6話 世の乱れ、ちらつく乙女心

 それから土方は、自ら江戸で隊士募集などをし、新しい隊士を連れ京に戻ってきたりと忙しかった。この頃から世間も新選組内も目まぐるしく動き始める。新選組を離隊した三番組組長の斎藤一が御陵衛士を脱けた。土方から知らされたのは斎藤は新選組の間者として、御陵衛士に潜んでいたということ。そして恐ろしい話を聞いた。


「斎藤の話によると、伊東は近藤さんを亡きものにすると言ったそうだ」

「ほう。とうとう吐きやがったか」

「土方さん。いつ、伊東をるんだ」


 幹部たちは今夜にでも殺るぞ、という勢いだ。それを土方は静かに制した。


「相手に悟られてはならない。伊東はここで参謀までした男だ。剣術の腕も知っての通り、頭もいいと来たもんだ。力任せに殺って失敗でもしてみろ……俺達の立場はなくなる」


 土方は局長の近藤と作戦を練ると言った。脱出した斎藤はすぐには新選組に復帰せず、頃合いを待つそうだ。


「いいか、あいつはもう斎藤ではない。山口二郎だ。間違えるなよ」

「おう」



 それから、土佐藩を脱藩して世に名を馳せた坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かに暗殺された。近江屋という場所で坂本はほぼ即死。中岡に至っては重傷で助けられたものの、数日後に息を引き取った。私たちにはあまり関係なかったが、世間では大変な騒動となった。

 世がお爺が言ったように波立って来た。その波が私が思う波よりも荒い。もう直ぐいくさが起きる。大きな長い戦だとお爺は言っていた。常世兄様はどうしているだろうか。きっと兄様なら重要な立場にいるに違いない。私は……私は土方歳三の小姓だ。小姓という立派な仕事をしている。自信を持ってと自分に言い聞かせた。


「副長。お茶をお持ちしました」

「おう、入れ」


 いつものように文机に向う土方の為にお茶を持ってきた。許可を得て静かに障子を開けるともう一人、知らない人間が座っていた。


「申し訳ありません。すぐにもう一杯淹れて参ります」

「いや、いらん。直ぐに出る。ほう、あんたが鉄之助か。また随分と若いな」


 その物言いに、その男が斎藤一改め山口二郎なのだと分かった。


「山口先生。市村鉄之助と申します」


 頭を上げると山口は鋭い視線で私の体を隅々まで見ていた。この男、何か疑っているのだろうか。


「折を見て、稽古をつけてやる」

「ありがとうございます」


 山口はふっと、口元を一瞬緩めて土方に向き直ると、新選組への復帰の許しの礼を言いその場を去った。山口は元の三番組を取りまとめるそうだ。その背中は静かでいて鋭い何かを放っていた。他の幹部とはまた一味違う。


「テツ。肩がこった。揉んでくれ」

「あ、はいっ」


 私は土方の肩を揉んだ。首から背中までとても硬く解すのに一苦労だ。最近は道場で刀を振っていないし、毎日難しい顔をしている。隊を束ねるのも、世間との調和を見るのも土方が全部していた。


「副長。少しうつ伏せになっていただけませんか。力が入りにくいので」

「分かった」


 座布団を二つ折りにして胸の下に敷いてもらうと、私は土方の背に跨った。昔はよくお爺にもしていた。体重を指先に乗せるようにして、教わったツボを圧す。


「テツ、お前どこで指圧を教わった」

「え。昔、近所の爺様に」

「ほぅ」


 気持ちがいいのか土方の息遣いが変わった。もう少し圧したら眠ってしまうかもしれない。できれば眠ってほしいと思った。なぜか分からないけれど、私は土方歳三の体がとても心配だった。


「ああ、寝ちまう」

「少しくらい良いと思いますが」

「だがな、やらなきゃなんねえのが……」


 すうっと吸い込まれるように寝てしまった。四半刻したら起こしてあげよう、そう思い羽織を背中に掛けた。そっと眠る顔を覗き込む。閉じた瞼に生える睫毛は黒く長い。鼻も筋が通っており異国の者と変わらず高い。そして閉じられた唇は薄いけれど形が良かった。


「いい男だな……」


 ついそんな言葉が漏れて出た。人の顔を見惚れるのはこれが初めてだった。その瞼が開いているときは絶対にできない事だ。私は手を伸ばし、指先でその睫毛に触れてみた。ピクピクと反応はしたものの、起きる気配はない。それもそのはず、私が押したツボは深い睡眠を誘うものだったのだから。それからは殆ど無意識だった。指先を睫毛から鼻先へ移動させ、滑るようにその薄い唇に触れた。この口で男にどれだけ厳しい言葉を発し、女にどれほど甘い言葉を紡いだのだろう。なぜか胸の奥が苦しくなった。


「酷い男、だな。自慢するほどの女が存在するなんて……私だって」


 はたと自分の言動に気づき手を離した。そしてすぐに外の気配を確認する。幸い誰の気配もなかった。自分でも馬鹿だなぁと思う。こういう所が未熟なのだと知っている。なのになぜだろう。土方の側に居ると、早く大人になりたい。美しく可愛らしい女になりたいと思う時がある。女になど戻れないと言うのに。


「私は馬鹿だ。さて、湯呑みを下げてこよう」


 いっときの迷いを掻き消すように私は炊事場に向かった。




 炊事場は今ごろ夕餉の後始末も終わり、誰もいないし静かなはずだ。しかし今夜は違った。


「沖田先生。どうされました」

「ん、喉が渇いてね。あと、君に会いたかった」

「あ、はい。お茶と白湯どちらにしますか。あと、なぜ私に会いたいと」

「うん、なんでかな。君と話すのは面白い」


 これまで私のことは鉄之助と呼んでいたはずだ。なぜか今夜に限って君呼ばわりだった。


「薄めのお茶を淹れました。どうぞ」

「え、土方さんの出がらしじゃないか。やだよ、二番煎じは頂かない主義だよ」

「沖田先生のは出がらしではありませんよ。ほら、本当に薄めに淹れたのです」


 私は急須の中の葉を見せた。そしたら沖田はにこりと嬉しそうに笑ってその茶を飲んだ。なんと大きな子供だろう。これで剣術の腕はいいのだから不思議で仕方がない。


「君も飲んだら」

「いえ大丈夫です。もう暫くしたら副長を起こさなければならないので」

「土方さん、寝てるの」

「はい」


 ふうんと言いながら、沖田は何かを見抜こうと私の頭から足先まで見る。気のせいか、その視線が下から戻るとき胸元で止まった気がした。


「な、なんでしょう」

「ちょっと、ふはっ。女の子みたいな反応するの、止めてくれないかな」

「はあっ! 女の子って」


 びっくりして大きな声を出してしまった。すると沖田はお腹を抱えて笑い出す。そして、ケホケホと咳き込んでしまった。


「沖田先生笑いすぎですよ。さあ、ゆっくりと息を吸ってください」


 私は沖田の背中をゆっくり擦った。擦りながら咳を抑えるツボを探る。なんとなく私にも分かってしまったのだ。誰も表では口にはしないけれど、沖田の病は治らないものだと言うことを。椿さんは必死で隠しているようだった。恐らく沖田もそれを望んでいる。


「ごめん、ごめん。君がおかしなことを言うから」

「言っていませんよ」


 ひゅうひゅうと空気が漏れるような音も落ち着くと、沖田は顔を上げた。苦しかっただろうに、もうその顔はへらっといつもの表情だ。そして沖田は突然私に手を伸ばしてきた。女のように長い指で私の頬を摘んだのだ。


「お、おきっ」

「まったく君は……。頼んだよ、土方さんのこと」

「え」

「起こさなきゃ、ならないんだろ。鼻をつまんで息を止めてやりなよ。鬼のように真っ赤にして怒るからさ」

「なっ、そんなことしませんから」

「ふふっ、じゃあね」


 にこりと笑うと足取り軽やかに炊事場を出ていった。去りながらも片手を上げて、ひらひらとその手を振っている。床に伏しているとはいえ、沖田の背中の筋はまだ立派だった。誰かが刺客を送り込んでも、刀は振れるだろう。それも時が経てばそうは行かなくなる。お爺から聞いたあの病はそういうものなのだ。不思議と憎めない沖田を思うと、残念な気持ちが湧いてきた。



 私は再び土方の部屋に戻った。土方はまだ眠っている。私は羽織を少しズラして声をかけた。目の覚める呪文をそっと耳に送る。


「副長」

「ん、はぁ。寝てしまったな。すまん」

「そんなに時間は経っておりませんよ」

「そうか。それにしても肩が軽いな。テツ、お前は本当に按摩がうまいな」

「ありがとうございます。またやりますので、いつでも」

「おう、そんときは頼む」


 にやと土方が笑った。初めて正面からその表情を見た。だからだろうか、私もつい嬉しくなって笑顔で返してしまう。


「お安い御用です」

「っ……」

「副長、どうかされましたか」


 僅かに土方が息を漏らした気がした。しかし、そこにはいつもの副長の顔があり何でもねえよと、文机に向かった。もう休んで良いと言われたので私は部屋を出た。


 廊下に出ると月の灯が差し込んでいる。ふと見上げれば秋の丸く大きな月がそこにあった。とても優しい光だ。今夜は土方の笑った顔が見れた。なんだか得した気分だった。




 この日から、僅か数日後。油小路で大きな事件が起こる。それが以前から図られていた、伊東甲子太郎の粛清だ。内部抗争を繰り返すこの時代は誰が味方で誰が敵なのか分からない。ただ、一つだけ、私は土方歳三がどちらの人間であろうとも、共に命を使うと決めている。


 もう、国には戻れない。もう、兄様に頼れない。もう、お爺はいない。

私の歩む道は私が決めるのだから。

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