第3話 沖田総司という男

 土方の部屋をあとにして、いちど炊事場に戻った。沖田総司の部屋に行くときには、白湯を持っていくことになっているからだ。炊事場には井上源三郎と隊士数名が飯炊きをしていた。当番制らしい。


「鉄之助、用心するんだよ」


 なぜかそんな一言をもらい、私は首を傾げながら沖田総司の部屋に向かった。まさか作法に煩いとか、白湯が不味いと理不尽な文句をつけてくるのか。いずれにせよ、穏やかに受け止めるしかないかな。そんな事を考えている間に部屋の前までやってきた。「ふぅ」と、気持ちを落ち着かせ障子に手を掛けた。


「沖田先生、鉄之助です」


 まだ、朝も早いため控えめの声で様子を見た。返事がない。体調が急変して倒れていたらどうしようと悪い思考になる。


「沖田先生、入りますよ」


 私は気持ちが焦り、盆を持ったまま障子を開けた。奥にちらりと見えたのは布団に横たわる姿、そして枕元に手拭い。


「おきっ……つあぁぁ」


 突然、私の足を痛みが走った。その反動で盆を返してしまい足袋が白湯で濡れてしまった。一体何が起きたのか。


「痛ったぁ。お、沖田先生っ、ご無事ですか」


 一瞬、刺客かと混乱しそうになったけれど、そんな殺気は感じられない。すると。


「くっくっくっ。この状態で、僕の心配をしてくれるなんて鉄之助くんも、新選組隊士らしくなってきたねぇ」

「あっ、い、いつのまにっ」


 沖田が横に立っているのに全く気づかなかった。この私が人の気配を誤るなんてこと、あってはいけないことなのに。


「大丈夫かな。派手にこぼしたね、はいこれで拭きなよ。くくっ」

「あ、ありがとうございます。いや、もう足袋は脱ぎますのでお返しします。それよりこれはどういう事でしょうか」


 足元に空の花瓶がごろりと転がっていた。とても重厚感がある。どうりで痛いはずだ。沖田総司は悪いとは思っていないのか、肩を揺らして笑うだけ。炊事場で言われたのは、このことだったのか。


「どういう事もなにも、こういう事だよ。毎朝のことなのに君も学ばないね」


(毎朝っ……呆れた。なんなの、この男は本当に病を患っているの)


「わざとですよ。私は沖田先生に、付き合っているだけです」


 ついカッとして口答えを言ってしまった。鉄之助はこんな時になんと返していたのだろう。


「へぇ。君も言うようになったね」

「申し訳ありません」

「いいよ。やっと面白味が出てきたってことさ。それより君、女みたいな指をしているね。こんなに足、小さかったかな」


 沖田総司はそう言いながら屈んで、私の足の指先を突いてきた。


「えっ、やっ、うわぁぁ。み、見ないでください。それに私はっ、女ではありませんっ」

「ふははっ。そんなに顔を赤くしなくてもいいじゃない。本当に君は苛めがいがあるよ」


 なんて人間だとこみ上げるものを抑え込んで、私は深呼吸をし落とした湯呑みを拾い上げた。


「もう一度、お持ちしますね」

「もういらないよ。そろそろ朝餉だし、その時でいいから。ああ、楽しかった。またね、鉄之助くん」


 こんな人とは知らなかった。なぜ、鉄之助の記憶に沖田総司の性格がなかったのか。それがとても気になるけれど、今はそんな事に割いている場合ではない。ただ、この沖田総司と言う男、何を考えているのかわからない。常世兄様なら心を読めるのにと恨めしい。お爺は私にその手の術は教えてくれなかったから。


「失礼しました」


 軽く礼をしてその場を去った。なんの役にも立たなかった湯呑みを持って炊事場に戻ることになるとは、なんとも言い難い。廊下を歩くとき、背中に視線を感じていたけれど、沖田のにやにや小馬鹿にした顔が目に浮かんだので振り向かないでおいた。


(子供じゃないんだから……もぅ)



「テツ。総司の具合はどうだった」


 戻る途中で、副長に出くわした。


「ええ、そりゃもう、お元気そうでしたよ」


 そう返すと、土方は「ほう……」と目を細めて私を見つめた。なにか、おかしな事を言ってしまったのか。


「お前、随分と気に入られたな」

「はぁ、そうでしょうか」

「間違いねえな。ま、たまに付き合ってやってくれ。アイツも本当は刀を振り回してえだろうからな」

「振り回せそうなくらい、お元気でしたよ」

「そうか」


 近寄りがたい端正な顔が少しだけ緩んだのを見てしまった。分からないくらい小さな緩みだったのに、不覚にもどきりと心臓が跳ねた。眼光は鋭いままなのに、口元が少し上がった程度で慈しみ帯びた笑みに変わった。


「あ、朝餉の手伝いが残っていますのでこれで」

「おう」


 沖田総司は局長の近藤勇だけでなく、土方からも思われているのか。同門というのは切っても切れぬ縁なのだろうと思った。


(常世兄様……)


 ふと、別れた兄を思い出す。兄のように強く逞しく、賢くなりたいといつも思っていた。でも、女というだけで叶わぬこともあった。いつも兄に守られて生きてきた私は、初めて自分の足で歩み始めた。新選組という得体の知れない集団の一員として。


『常葉は死に急いでいるのか』


 そんな事を言われた。兄様から見たら、私が選んだ潜入先は将来のない、滅びゆく集団なのだそう。先見の明がないと叱られ、だからこそ逆らって飛び込んだ。


『いつも常世兄様やお爺が正しいとは限らない。ただでは死なないわっ』

『……好きにしろ』


 諦めからか、最後はそう言って話を終えた。死ぬのは怖くないけれど、何かを得て死にたいと思うのは悪くないはずだ。


「兄様……」



「なに。辰之助が恋しいの」

「うわっ」


 まさか無意識に口にしていたとは思わなかった。腕を組んで私を見下ろすのは、沖田総司で、そんな独り言を聞いたのも残念ながら沖田総司だった。


「神出鬼没です。沖田先生はっ」

「君もさ、素直じゃないよね。まぁ、僕も人のことは言えないけどさ」

「意味が、分かりません」

「幾つだったかな、鉄之助は」

「十五ですが」


 そう答えると、沖田は少し屈んで私の頬を指までつまんで引っ張った。


「はにふるんへすはぁぁっ」


 沖田総司の目が笑っていないのがとても怖い。


「君ってさ、女の子みたいに柔らかいよね。もっと骨っぽいと思ったのだけど」

「えっ」


(まさか、女だと疑っている)


 嫌な汗が背中を伝う。


「十五ってまだ子供だものね。お尻も青いんじゃないのかな。兄さん恋しくても仕方がないよね」

「もうすぐ十六になります。もう、子供ではっ、ありません」


 ああ、また感情的に返してしまった。あろうことか一番組の組長に。


「お前たち、何をしている」

「左之助さん。巡察帰りですか、ご苦労様です」

「総司と鉄之助か。なんか楽しそうだな」

「鉄之助が兄さん恋しくて泣いていたんですよ。可愛そうだから慰めてあげようと思って」


 原田左之助、十番組組長だ。背も高ければ骨も太くて前に立たれると圧迫死してしまいそうな体格だ。沖田のくだらない戯言を原田は鵜呑みにして、私の顔を心配そうに覗き込んできた。この原田という男も、島原では引く手あまたらしい。


「なんだお前、そうならそうと言えよ。辰之助を呼ぶことはできねえが、俺達が代わりに相手してやるのによ。水臭えやつだな」


 大きな肉厚の手で頭をガシガシと撫でられた。首がぐらぐら揺れるほど撫でるなんてあり得ない。


「さ、寂しいなんて嘘ですっ。沖田先生が勝手に決めつけて」

「分かった分かった。よし、今晩は俺が気晴らしに島原に連れて行ってやる」

「えぇぇ、結構です。そんな、私なんか行っても邪魔なだけです」

「鉄之助もそろそろ女を知ってもいいんじゃねえか。なあ、総司」


 隣でにこりと穏やかな笑みを浮かべた沖田総司。私は縋るような視線を送って助けを求めた。子供だからまだ早いと言ってくれないかと淡い期待をした。


「そうですね。新選組の隊士が女を知らないのも、恥ずかしい話ですしね」

「沖田先生っ」

「ようし、決まりだ。善は急げってな、朝飯食って、ちとばかし寝たら行くぞ」


 原田の太い腕が私の首に絡みつき、そのまま力任せに引き寄せられた。


(あまり、人と接触すると不味いのですがっ)


 幸いにも私の胸の成長は遅かった。さらしを巻いているけれど、巻かずとも良い程度のものだった。


「僕の分も楽しんできてくださいね。あ、土方さんには上手く言っておきますよ」

「私は行くとは一言もっ」

「おう、頼んだ総司」


 ぐいともう一度引き寄せられて、私は引き摺られるようにしてその場を離れた。

 

 原田は言ったとおりに朝餉が終わると、私が逃げないようにと部屋に引き摺っていく。そしてそのまま畳に横たわった。しかも私を巻き込んだままにだ。


(ううっ。原田左之助、男臭いっ)



 かすかに漂う汗の匂いが私の鼻をついた。常世兄様とは違う匂いだなと、思った。

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