第14話 オモロいヤツ
次に目を覚ました時、眼前には雄大なる青空が広がっていて。
そこを、真っ白な鳩が悠々と横切っていくのが見えた。
ふと視線を動かすと、少女が一人、こちらを覗き込んでいる。
日野陽鞠だ。
「やあ。今日も君は素敵だね」
いったん死を覚悟したせいだろうか。そんな歯の浮くような台詞もすらすら言える。
すると少女は、ぽーっと顔を染めて、
「んもう。からかわないで下さい」
いや、ダメだ。もっとからかいたい。できればずっとずっと。永遠に……。
思考は若干、空回りしていた。
現実に関する出来事など全て、こことは違う、遠い世界の出来事のように思えている。
しかし、そのような浮ついた感覚は得てして、長続きしない。
自身の置かれている衛生環境がさっそく気になり始めたのである。
びくんと虐待された子犬のように半身を起こした僕は、とりあえず全身を確認する。どうやら寝かされているのは、公園のベンチらしい。
――いったい何人の人間がこのベンチに尻を乗せたのだろう。
もうそう考えるだけで気が滅入る事態であったが、真に僕を混乱させたのは、膝にべっとりと付着した泥を目の当たりにした瞬間であった。
「ひ、ひいっ!」
叫びつつ、ポケットからウェットティッシュを取り出し、ごしごしとズボンを擦る。
もちろん、気になる箇所はズボンだけではなかった。
お気に入りのチェック柄のシャツは……うげ。鼻血がついているではないか。
こうなってくるともう取り返しがつかない。
一刻も早く家に帰って、まるごとゴミ箱行きにせねば。
「あのぉ……さっきーくん、大丈夫ですか?」
「あ……ああ。まあ。うん。そこそこ?」
我ながら説得力のない返事だとわかっているが、自分でもどうしようもない。不快度指数は許容ラインを遥かに振り切っている。一刻も早く帰宅する必要があった。
だが、……もちろん、この場を放置したまま帰る訳にはいかない。
――落ち着け。落ち着け。深呼吸しろ。
す――――――――っ。
は――――――――っ。
――とにかく。ここで涼音とのことを決着させなければ、鼻血を吹いてまで覚悟を示した甲斐がなくなる。
顔を上げると、苦い表情の涼音と目があった。
何か言葉にせねばならぬと思ったが、口から出たのは、
「…………ふわあぁー……………」
という、気の抜けたため息のような音のみ。
盛大に血を吹いたショックのせいだろうか。言葉が思考に追いついていないのだ。
助け舟を出したのは陽鞠である。
「すずちゃん? さっき約束したでしょう?」
温和な彼女にしては珍しく、その言葉には怒気を含まれていた。
「……………ぐぬう」
「『グヌー』じゃなくて。先光くんに何か言うことがあるのでは?」
すると、涼音の眉間に刻まれたシワがぎゅっと深くなる。
その後、むっつりした表情で僕を見下ろすこと、数秒。
「んもーっ!」
突如として、がりがりがりがりっと頭をかきむしったかと思うと、
「悪かった! ウチが悪かったっちゅーねん!」
「……何? ちゅーねん?」
「無茶させてすまん! 厨二病とか言ってすまん! アンタ、ホンマもんや」
「ホンマモン? ……どういう意味だ」
関西だけで食べる変わった料理かなんかか。
「せやから、ホンマもんの……ちょっと本格的に気の毒な人やっちゅう……」
ああなるほど。そういうことか。
「厨二病→RankUP!→本格的に気の毒な人」……と。
どういう形であれ、理解を深めていただけたのなら、これ幸い。
「僕こそ、六車さんにはすまないことをした」
「……ホンマか? ホンマにそう思ってるんか?」
「ああ。誰かに迷惑をかけることはしょっちゅうなんだ。……その度にすまないとは思ってる。一応」
「…………………ぐぬぬう」
涼音が低く唸って、
「……ま、そっちがそういう考えなら、……しゃーないな」
反目していた二人が歩み寄る、劇的な瞬間であった。
もちろんこれだけで完全に仲直り、とはならないだろう。
お互い素直になるには、僕たちは気まずい時間が長すぎたのである。
そこで陽鞠は、ぱんと手を打ち合わせて、
「そんじゃ、二人ともこの一件は綺麗さっぱり水に流すということで。みんな仲直り……です、よね?」
僕と涼音はそもそも仲が良かった時期など存在していないから、”仲直り”という言葉は少し間違っているような気がしたが。
「わかった」「おっけーや」
僕は、涼音とほぼ同タイミングで頷く。太陽のように眩しい陽鞠の笑顔を少しでも曇らせるのは、この世で最も罪深い行為に思えたのだ。
――これにて一件落着、だな。
ほっと一息ついて、……歩き方を覚えたばかりの赤ん坊のようにゆっくりと立ち上がる。
派手に鼻血を吹く羽目になったわりには、思ったより意識ははっきりしていた。
最悪、タクシーを呼ぶ必要があるかもしれないと考えていたが、なんとか歩いて帰れそうだ。
「じゃ、今日のところはそろそろ、」
おいとまします……と、そう言いかけて。
「あ、ちょい待ち!」
涼音が、少し慌てた口調で僕を呼び止めた。
「まだ、何かあるのか?」
「ある」
そして彼女は、ハンカチに包んだ、見覚えのあるスマホを取り出した。
「これ、さっきあんたが倒れた時、ポケットからこぼれ落ちたモンやけども」
「拾っておいてくれたのか。助かる――」
そう言いかけた言葉は尻すぼみになった。
画面に表示されている少女と目が合ったためである。
『ハロー! マスター! ハロー! マスター!』
「これ、……………なんや?」
――しまった。豪姫のこと、バレてしまったか。
そう思う。
……が、どうも違うらしい。
『コンニチワ、マスター! コンニチワ、マスター! ハロー、マスター!』
正体がバレてしまっているのなら、演技を続ける理由はないはずだ。
「今の聞いたか? 先光」
「聞いたって、何を?」
「決まっとる。……このキャラ、セリフのパターンが二つしかあらへん。しかもこれ、乳丸出しやん。どーいうこと?」
「どういうこと、……と、言われても」
そこで僕は、涼音の疑問が、純粋にゲーマーとしての好奇心によるものだと気づく。
彼女は、先ほどまで不機嫌に頭を掻きむしっていたことなどまるきり嘘だったみたいに目をキラキラさせて、
「ウチ、色々試したけども、どーやっても最後の一枚は脱がせられへんかったのに! これ、どーいうキャラなん? なんか裏ワザ使えば手に入る、とか?」
「……ふむ。そういう聞き方をするということは……つまり、」
「うん。最近、ウチの周りで流行ってんねん。『運命×少女』」
やっぱりそういうことか。
『運命×少女』は、その完成度の高さから、女子の間でも一定の人気があると聞く。涼音が遊んでいても不思議ではない。
僕は慎重な手つきでスマホを取り返し、
『コンニチワ、コンニチワマスター!』
――安心しろ。豪姫。約束は守る。
僕は頭をフル回転させ、アドリブで言い訳を用意する。
「このキャラは――どうやら、ちょっと壊れてるみたいなんだ」
「壊れてる?」
「うん。どんな指示をしても服を着てくれないし、何の役にも立たないけど、面白いからそのままにしてるんだよ」
『コンニチワ! コンニチワ!』
「へー。そーなんや」
『ハロー!』
そこで涼音は、妙に勘ぐるような表情になって、
「てっきりなんか、エッチな目的で利用してるんやと思ってたけども」
なぬ、と、一瞬言葉に詰まる。
女子と呼ばれる生命体は一般的に、性的な話題を避ける生き物だと思っていた。
「ひょっとして、陽鞠にそっくりなキャラとか作っとるんとちゃうのん?」
「何を馬鹿な。……まさかとは思うが、ゲームに触ってないだろうな?」
「もちろん。ウチかてゲーマーや。礼儀は守る」
内心、胸をなでおろす。さすがにゲーム画面に触られていた場合の言い訳は用意できなかった。
「ま、ええわ。今日はあんたが、かーなーりオモロいヤツやってわかったし、ごっつい収穫や」
実を言うとこの”オモロいヤツ”認定こそが、涼音にとってのお友達宣言であることに気づいたのは、ずいぶんあとになってからであった。
その時の僕は、
――ひょっとしてこいつ……今後もこのノリで絡んでくるつもりか?
と、なんとなく薄ら寒い思いをしただけ。
その後、涼音と陽鞠が、キャッキャキャッキャと女子トークを繰り広げ始めたので、僕は早々にその場を退散することができた。
帰り道。
百人斬りを達成した傭兵のように疲労困憊した僕は、スマホの中に住む相棒に、
「今日……僕はけっこう、頑張ったよな?」
と、訊ねる。
すると相棒は、苦笑交じりに応えた。
『まあまあだな。六十三点ってとこ?』
それは、豪姫らしい辛口評価であったが。
僕は満足して、オレンジ色に染まる街を歩く。
休日に六時間以上、家の外で過ごしたのは、実に数年ぶりの経験であった。
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