第13話 チーズ

「あっ、すずちゃん!」


 涼音の姿を見て、陽鞠がとことこと走り寄る。


「……………………………………」


 涼音はというと、宿敵を目の前にした侍のような立ち姿で僕を睨んでいた。


「あのあの、えっと。すずちゃん。聞いて? 今、ぐーぜん先光くんが通りがかって、それで……」


 あたふたと事情を説明する陽鞠を待たずに、僕は先手を打った。


「すまん」


 ひらがなの“く”の字になって、頭を下げる。

 こういう時は、率直に思いの丈をぶつけるのが正解だ……たぶん。


「二人が喧嘩をしていると聞いた。喧嘩はいけない。仲直りするべきだ」

「ほほーう……」


 涼音は、「まな板の上の獲物をどう捌くか」といった表情で僕を見てから、


「言っとくけどウチ、陽鞠のことはぜーんぜん怒ってへんよ?」

「そうか、なら……」

「けど、あんたのことは許されへん」


 それは、地獄行きを命ずる閻魔大王の如く、押し殺した口調であった。


「人の気持ちを平気で踏みにじるような輩とウチの可愛い陽鞠が……そーいう関係になるなんてな。そんなん虫酸が走るわっ」

「しかし、それを決めるのは陽鞠であって、」

「カンケーない! 陽鞠の交際相手はウチが面倒見るッ! むしろウチが陽鞠の面倒みる! 一生添い遂げる!」

「そんな馬鹿な」


 僕は一瞬だけ陽鞠の顔を見て、


「まさか君たち、そういう……」


 そこで、陽鞠が頬を朱に染めて口を挟む。


「違います!」

「仮にそうだとしても好きだ!」

「だから、違うって……」 


 我ながら、いかにも冷静さを欠いた一幕であった。

 求めているのは、単に二人の仲直りだけだというのに。


「よおし! そこまでいうなら、ウチが試したる!」

「なに?」

「ここに、クッキーがあるっ! 陽鞠のために焼いてきたモンや! ……それを、いま! ここで! 食え! そしたら、二人の仲を認めたる! どや!」


 こうなってくるともう、何が何だかわからない。

 だが男として引き下がるわけにはいかないことは確かだった。


「いいだろう。……それを食えば、僕と陽鞠の交際を許してくれるんだな?」

「せや! 女に二言はない! ……な、陽鞠!」


 陽鞠は、唇をぶるぶる震わせながら「え、ちょ、それ、私の意思がまったく介在してない……」と呟く。


 僕はほとんどやけくそになって、涼音がカバンから取り出したクッキーをひったくり、そのリボンを解いた。

 同時に、焼きたての甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 中には、ハート形のクッキーが七枚ほど入っていた。


「………………………………………………ほほう。なかなかのクォリティではないか」

「なんでそんな偉そうやねん」

「だが。まずその前に。――本作の製造工程に関する、詳細な説明を要求する」

「……気になるか?」


 少女は唇を斜めにして、


「そりゃそーやなあ? あんた、いっつも宇宙食みたいなモンばっか食っとるから。それ以外のモン、人前じゃあ口にせえへんねやろ?」

「……そうだ」


 そこで少女は、勝利を確信した笑みを浮かべて、


「まあ、武士の情けや。材料名くらいは教えたる。……これ、おからクッキーをやから、材料はおからとごま、砂糖にオリーブオイル……そんなもんや」


 ふむ。


「卵は?」

「今日のには入っとらん。……なんや、卵入っとるとまずいんか?」

「まあな。……あれは鶏の肛門から排出される。糞が経由した場所と同じところから出てくるものは食えん」

「なんちゅう言い草を……」


 涼音は幼なじみを侮辱されたような表情で僕の顔を見る。


「それともう一つ。……クッキーを作るとき、ちゃんと手は洗ったか?」

「もちろんよ」

「石鹸で洗った程度では、完全に洗ったとは言えんぞ。……アルコール除菌は?」

「しとらん」


 なんだと?


「アルコール除菌をしていないだと? ……君、それでは、便所で尻を吹いた手で食べ物を扱っているというのか」

「はあっ!? な、なに言うんやッ!」

「はっきり言わせてもらうが、君の手は今、サルモネラ菌で汚染されている」

「されとる訳あるかぁ! ちゃんと除菌作用のある石鹸使っとるから大丈夫や!」

「……ううむ」


 それなら、――材料にも問題はないようだし、ぎりぎり許容ラインか。

 そこで涼音は、これ見よがしに深いため息を吐いて、


「あんた、本当にどっか遠くの星からやってきたんとちゃうの?」

「なんとでも言え」

「知っとるか? あんたみたいなヤツのこと、ネットとかじゃあ、厨二病言うねんで? ……そうやって、人と違う自分に酔うとるんやろ?」


 心の中の冷静な部分で理解する。

 なるほど。彼女が僕を嫌う理由の一端は、そういうことか。

 ……と、なると。

 手作りクッキーを目の前にして、僕は今、敗北が確定している戦いを挑んでいることに気づく。

 もし僕がこのクッキーを食べてしまえば、涼音は「それみたことか」と僕をなじるだろう。

 かといって、このままクッキーを食べられないと、陽鞠に対する想いを見くびられるということにもなりかねない。


「………………………………………………………………………………………………ぐう」


 唸りながらも、手は自動的に動いていた。

 ここで逃げ出してしまうのは簡単だが。

 自分にとって何が一番大切か。

 それは、それだけは間違えてはならない。

 今回ばかりは、耐えるのだ。

 僕はクッキーを一枚取り出し、マジシャンが観客にコインを見せる時そうするように、涼音の目の前に持っていく。


「では……………………………………いただきます」 

「いいからはよ食えや」


 僕は、ごくりと喉を鳴らした後、涼音手製のおからクッキーとやらを口に含む。


「……………………(むしゃり。ぱりっ、むしゃ、むしゃ、もぐり)」


 クッキーが口の中で砕けて、ペースト状に変化していった。


「……………………………………………………………!」


 一口噛むごとに、歯と舌が腐っていくかのような感覚がする。

 知らず知らずのうちに、目には涙が浮かんでいた。


――今だ。飲み込め! すぐに飲み込め!


 頭ではそう考えるが、心がそれを拒否している。

 これを地面に吐き出してしまえば……どれだけ楽か。

 だが、それだけはできなかった。

 そして僕は、我ながら恐るべき忍耐力で”それ”の嚥下に成功する。


――やった! やったぞ!


 頭の中では、数千人のブラジル人が歓喜を表現するためのパレードを開いていた。

 対する涼音は、少しだけ目を細めて、


「……で?」

「ん?」

「味は?」

「………味?」

「感想や。味の感想」


 そう言われても。

 口に含むだけでいっぱいいっぱいで、正直なんの味もしなかったというか……。

 だが僕は、努めて冷静さを振る舞いながら、


「……まあ、よかったよ。新たな味の領域に目覚めたってところかな」

「ほー。さよかぁ」


 冷たい目。まるで養豚場の豚を見るような。

 そして。

 彼女は。


「隠し味が効いとるんかな」


 ……と。


「なに? 隠し味?」

「チーズをちょっとだけ混ぜ込んどいたんや」

「君、いま、なんて?」

「……二度言わすなや。だからチーズや。っつっても、ほんのちょっとだけやし。……なんか文句あるか?」


 ち。

 ……ちー

 ……チーズ?

 …………cheese?


【チーズ】

 牛を始めとする鯨偶蹄目の反芻(ゲロをむしゃむしゃするやつ。基本的に臭い)するタイプの家畜から得られる白濁した液体を固形化するまで腐らせた食品。多くの場合、内部に気泡のような球状の穴が開いているが、これは決して気泡の類ではなく、ドブネズミがかじった跡であると広く一般に知られている。


【ドブネズミ】

 ネズミ目ネズミ科クマネズミ属の大型ネズミ類。雑食性。高タンパク質の餌(主にチーズ)を好む。また、死んだ動物質も好む習性をもち、このことから動物の死骸=チーズの図式が成り立つことは明白であり、


 ちちちちちち

 ちいいいいいいいいいいず

 ちいず?

 ちいずだと?

 あの?


「冗談じゃない、……」


 瞬間、ぶぼおっ、と、僕の鼻が奇妙な音で鳴った。

 何かと思った次の瞬間、僕の鼻孔から、盛大に血が噴出しているのを見る。


――うそだろ? これ、死ぬんじゃ……。


 自分の身体のことはよく知っているつもりだったが、このような現象は生まれて初めての経験であった。

 

「ほ、ほぎゃあああ、なんじゃあこりゃああああああああああああああああっ?」

「うそ! 先光くん!?」

『……かっこうつけすぎだ、ばかっ』


 三人分の少女の悲鳴が聴こえて。

 僕が意識を失ったのは、その次の瞬間であった。

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