第6話 東京駅からのバスの帰り道・思い出

 20代の頃、東京に通っている時期があり、八重洲口から、バスに乗ることが多かった。バスに乗るときは、必ず一番前の席と決まっている。私は、バスの匂いそのものにも、揺れにも酔ってしまうから。


 その日。


 迷わず高速バスの一番前の席――窓側に座り、大きな窓から見える東京駅をぼーっと眺めていた。


「May I sit here?」


 振り向くと西アジア系のスラッとした女性がいた。黒い輝くような瞳と、天然パーマのかかったロングヘアー。綺麗な人だったけど、表情がなかった。


 海外旅行は初めてで緊張しているのかしら?と思い、愛想よく「Sure!」と答え、ニコッと微笑んだ。


「Where are you from?」


 と訊くと、


「I am from Iran」


 との返事。彼女は、そう言い終えると、私を英語を理解できる人だと思ったようだった。すぐに祖国のことを少しなまりのある英語で話し始めた。詳細は覚えていないが、とにかく彼女は遠いところを見たような眼差しをして、ずっと熱心に語った。


 バスはいつの間にか発車していた。彼女は途切れることなく話し続け、私は相槌を打ち続けた。


「私の母も、父も、死んだの。戦争で……。死んだのよ」


 彼女は、そう言い、それから同じ話を繰り返した。そして最後にまた言う。


「母も、父も、死んだの。私、見たの。死んだのよ」


 なぜ、初対面の私にそういう話を打ち明けたのかはわからないけれど、私は、ずっとうなずきながら聞いた。私に伝わっていることが、彼女に伝わりますようにと願いながら、聞いた。


 聞いている間中、私の魂は、すーっと彼女の過去に飛んでいってしまった。


 私の目の前に彼女の家族の死があった。

 私は失望しているまだ少女である彼女の隣に立っていた。


 そのときに初めて、私は失望というものを味わった気がする。


 誰のことも憎んでいるわけではない。

 誰のことも責めているわけではない。

 落ち込んでいるともまた違った。


 それは、未来というものに期待するとか、将来を見ようとする意思が、ポトリ、と落ちたような、途切れたような感覚だった。


 真っ白な、パニックともまた違う、何もかもがなくなった瞬間。色が世界から消えた瞬間。


 本当は心の奥底では怯えているのかもしれないけれど、怯えるという感覚さえ、なくなったような、失ったような感覚。


 その日、彼女は誰にも言えなかったのかもしれない。


『私のママとパパが死んだの。誰か助けて』


 だから、誰だかもわからない私に、たくさんたくさん話したのかもしれない。


 私は、バスに乗っている間中――おそらく40分くらい彼女の話を聴いた。なんて言って別れたかも、記憶がないけど、彼女のことを最近よく思い出す。出会えてよかったと思っている。ほんの少しだけど、外国での惨状を、心で知れてよかった。


 世界には、まだ怯えている少年少女が沢山いる。


『助けて』

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