第4話 カフェ・ブレイクー1
一日の始まりは、いいコーヒーから。
彼は、手入れの行き届いたミルを取り出し、コーヒー豆を一杯分だけ入れて、ゆっくりと取っ手を回す。カリカリと軽やかな音が響き、艶やかな香りが一気に広がる。
「ああ、いい香りです」
あらかじめ火にかけておいたポットが湯気を出しながら準備が出来たことを知らせてくれる。今日の気分はあっさりとした味わい。ペーパードリップを用意し、挽きたてのコーヒー豆をセットする。お湯を注げば、むくむくと膨らみ、そしてゆっくりと落ちていく。何度か繰り返していけば、濁りのない深い一杯のコーヒーが出来上がる。
「んー、我ながら上出来ですね」
カップを口元まで持ってきて、広がる香りを楽しんでから飲むのが彼のこだわり。
「もうマスター! また開店直前にコーヒー飲んでるじゃん」
「これは私の開店準備ですから。今日の調子をみるためのルーティンです」
「ルーティンなら時間もちゃんと決めてよね。マスターのコーヒータイムのせいで開店時間がころころ変わってるんだから」
「それは申し訳ない」
申し訳なく思っているようには見えない笑顔で、彼、カフェ・黒猫のマスターはにっこりと笑った。
「ほら、開店するよ」
外開きの扉を大きく開けて、表の『close』になっているプレートをひっくり返した。
タイミングよく、客が来たようだった。いつもの常連さんと、その隣には女の子。
「いらっしゃいませ」
*
本部内にある私室でくつろいでいたトキは、ノックの音が聞こえて扉を開けた。トキの部屋の扉は、菜の花色に色づく。
「灯さん! どうしたんですか」
「トキ、今暇か?」
「今日はお休みもらいましたし、暇ですよー」
「今から喫茶店でお茶でもしようかと思うんだが一緒にどうだ?」
「わーっ、行きます!」
トキはその場で飛び跳ねて、髪の毛と私服として着ているセーラー服の裾がぴょこんと跳ねた。クローゼットの中にはたくさんのセーラー服が収納されている。それぞれスカートの色や襟の形が違ったりしている。今日は深緑のスカートとリボンが特徴的なものを。
「前に麦わら帽子のやつから話を聞くときに使ったところ、覚えてるか?」
「あ……はい」
苦い経験を思い出しつつ、トキは頷いた。
「あのときはゆっくり出来なかったし、マスターのことも紹介してなかったからな」
「マスターさん?」
「あの喫茶店のマスターは、コーヒー豆を挽く道具であるミルの付喪神なんだ。一応言っておくと、イロなしだ」
「そうだったんですね」
「何より、あいつの淹れるコーヒーは美味しい」
灯はまるで自分のことを自慢するようにそう言った。誇らしげに話す姿は宝物を見せる少年のよう。
「灯さんはコーヒー好きですよね。いつも会議室とか仕事のとき飲んでますし。そんな灯さんが褒めるコーヒー楽しみです」
急ぐ道ではないから、二人はのんびりと本部から歩いてカフェへと向かう。コーヒースイッチが入ったらしい灯は、道中この間見つけたという新しいコーヒー豆の話に熱がこもっていた。
道の先に見えてきたカフェの前には、カフェエプロンを身につけた一人の女性が立っていた。ちょうど開店したところらしく、くるりと反転させたプレートは『open』と書かれていた。
「いらっしゃいませ」
「二人、いいか?」
「どうぞこちらへ」
前回訪れたときはゆっくりと店内を見る時間も余裕もなかったため、改めて見てみると店内はカウンター席が多くを占めていて、テーブル席は以前トキたちが使ったのを含めて二つだけ。椅子や照明はもちろん、シュガーポットなどの小物もアンティークな雰囲気で統一されていて、マスターのこだわりが窺える。
「素敵なお店ですねー」
トキはくるりとその場で回って店内を見た。一回転したところで、カウンターの奥でコーヒーカップを傾ける男性と目が合った。
「やあ、いらっしゃい」
「マ・ス・ター! お客さん来たんだから、コーヒータイムは終わり! ほら、立って立って」
「そうですね。よいしょっと」
立ち上がった彼は、黒いバリスタエプロンに蝶ネクタイをしめていて、いかにもな服装をしている。そしてそれがよく似合っている。見た目の年齢としては四十代だろうか。
トキの視線は、口元にたたえた絵に描いたような見事な口髭に奪われた。
「立派なお髭ですね」
自分の口元で八の字の髭を手で再現しながら、トキは思わずそう口にしていた。
「ははっ、褒めてもらえて嬉しい限りです」
「あ、すみません。初対面なのに」
「いいんですよ。褒められて嫌な気はしませんから。さあ、お好きな席へどうぞ」
「はい」
トキが灯に目線で問うと、灯は親指でカウンターを示した。二人でマスターの目の前のカウンター席に座った。
「今日はトキにお前を紹介したくてな。他に客もいないようだし、いいか?」
「もちろんです。では先にご注文を聞いても?」
「ああ。俺はブレンドを頼む」
「あたしは、えっと」
「メニューがなかったですね、これは失礼を。茜くん、持ってきてくれますか?」
マスターはテーブルのシュガーポットをチェックしていた女性に声をかけた。彼女はすぐにテーブル席のメニューを取り、トキに手渡した。
「おすすめはマスターオリジナルのブレンドだけど、コーヒー初心者にはこのカフェオレを勧めるかな」
「え、なんで分かるんですか。コーヒー初心者って」
「んー、なんとなく?」
茜は歯を見せて人懐っこく笑った。竜胆や鈴蘭とはまた別の接客向きのタイプだと感じた。トキは、一応一通りメニューには目を通したが、やはりここは。
「カフェオレで、お願いします」
「マスター、ブレンド1カフェオレ1ね」
「はいはい」
トキの注文はもちろんマスターにも聞こえているのだが、茜は一本ずつ指を立ててオーダーを通し、ピースサインを作った。マスターは苦笑しているものの、楽しそうである。
「この前の雨で看板とか汚れちゃってたから、わたし、少し外を掃除してくるー」
そう言うと茜は店の奥から布切れと箒を持って扉を外に押し開けた。カランカランと軽やかな音が響いた。
カウンターの内側でコーヒーが準備されていくのを見ながら、灯はマスターに話しかけた。
「さっきも言ったが、今日はトキにお前のことを紹介しようと思ってだな。まあ、まずはトキから自己紹介でも」
「はい。懐中時計の付喪神の、トキです。管理課の一員で、灯さんの部下です。よろしくお願いします!」
トキはピシッと背すじを伸ばしてそう言ってから、軽くお辞儀をした。
「ああ、やはり灯さんの胸ポケットにいつも居たあの懐中時計の方でしたか。なるほどなるほど。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。コーヒーミルの付喪神で、カフェ・黒猫のマスターです。ぜひ灯さんのように常連になってもらえると嬉しいですね」
「灯さんはよくここに?」
「コーヒーの淹れ方とかもこいつから習った。俺にとってのコーヒーの師匠だな」
「そんなそんな」
口髭いじりながら謙遜するマスターだが、やはりどこか嬉しそう。
「すごい人なんですね、マスターさ――」
トキは途中で言葉を止めて、じっとマスターを見た。彼は今お湯が沸くのを待っている。
「マスターさんの名前って何ですか?」
「ああ、名前は特に付けてないですね。元の持ち主がやっていたこの店を引き継がせてもらったので、マスターと呼ばれるのが嬉しいんです」
準備が出来たと声を上げるポットを、マスターはミトンを使ってそっと持ち上げる。口元に小さく浮かんだ笑みからは、積み重ねた努力と自信が垣間見えるような気がした。
「前の店主のブレンドは独特で誰にも真似出来ないと言われていた。こいつはそれを完璧に再現したんだ。すごく、美味しい」
カップに深い色合いをしたコーヒー注がれていく。灯は待ちきれない様子でそれを見ている。灯の新たな表情が見れて、トキはこっそりと微笑んだ。
「マスターさんすごいですね!」
「いやいや。私だけでは出来なかったですよ。茜くんのおかげでもあります」
「本当、バイトと二人だけでよくまわってるな」
「彼女はよく働いてくれますから」
箒で外を掃除している茜が窓枠から少し見える。マスターの視線につられて窓の外を見ていた灯はマスターに視線を戻し、先ほどより少し抑えた音量で問いかけた。
「明かしてないだろうな」
「もちろんです」
マスターは間髪入れずに答えた。コトリと置かれたカップに灯は手を伸ばす。
「何のことですか?」
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