母のようになりたい

西田彩花

第1話

やっと手に入れた。


中学生くらいまで意味が分からなかった。小学校受験のために塾に通い、子どもながら家でも外でもピリピリとした空気を感じていた。私は弥滝学院初等部に合格し、エスカレーターで大学まで行った。


家に帰ったら母の作る晩ご飯の匂いがする。毎日ご飯が楽しみだった。


やりたいことなんて特にないと思っていたけれど、何気ない日常に憧れた。私も母のようになりたい。母のように、家族のために美味しい晩ご飯を作って、笑顔で帰りを待っていたい。


父は大企業に勤めていた。母とは職場で出会い、1年ほどの交際を経て結婚したそうだ。


私も良い会社に入らなければ。良い会社に入って良い男性を見つけなければ。そうしないと、私は母のようになれない。幼い私に受験させたのも、きっとこの道を開いてくれるためだったんだ。


就活は大企業を中心に受けた。だけど面接が上手くいかず、最終的には父のコネで父の会社に入った。それだけの力がある父を素直に尊敬したし、そういう男性と結婚したいと思った。


「美沙姫ちゃん、いつもありがとう」


会社で資料を渡しに行くと、いつも爽やかな笑顔で微笑んでくれる彼がいた。私は微笑んで会釈して、もっと話しかけられるのを待った。


ある日、その男性から「話がしたい」と言われた。私はドキドキしながら頷いた。彼とのデートはいつもロマンティックだった。デートを重ねた後、正式に交際を申し込まれた。私は微笑んで頷いた。


「向澤ってさぁ、三上課長と付き合ってるよね」

「え、嘘ぉ!あんな大人しい女が?」

「ずっと猫被ってるんじゃないの、きっと」

「うわ、最悪。ていうかあれでしょ、この会社に入ったのも親のコネなんでしょ」

「コネ!?向澤ならあり得るなー。あいつの家って金持ちなんでしょ。小学校からエスカレーターで弥滝大。うちには真似できなーい」

「できないってか真似したくなーい」


トイレの個室にいると、私の話が聞こえた。恐らく同じ部署の同僚たちだ。高校まではあまり気にならなかったが、大学ではエスカレーターで入学した学生を嫌う人もいた。頑張って受験勉強して入った人たちにとって、私たちの存在は疎ましかったのだろう。だけど、文句を言うくらいなら親に頼めば良かったのにと思う。

コネ入社だってそうだ。せっかく頑張って入ったからという気持ちが強いのだと思う。文句を言うくらいなら親に頼めば良いのに。


三上史人はそんなことを一切気にしない人だった。彼は人懐っこい性格で、みんなから慕われている。その上きちんと結果を出すため、30歳で係長に抜擢、36歳で課長に昇進した。今は37歳。私よりも一回り年上だ。


私はどんどん彼に惹かれていった。彼と結婚すれば、私の夢が叶う。そう思った。


そして交際1年の記念日、プロポーズされた。薬指にはめたエンゲージリングは、この世で一番美しい輝きを放っていた。


エスカレーター式の入学やコネ入社を妬むくらいなら、こうして良い結婚できるように努力すれば良いのに。そう思った。


私は寿退社した。トイレで陰口を言っていたであろう同僚も、笑顔で花束を渡してくれた。彼女たちが花束を渡すとき、私の薬指に目をやるのを見逃さなかった。


新居に移り住み、史人との生活が始まった。私は毎日彼の帰りを待った。あの日の母のように、晩ご飯を作って。やっと手に入れたのだ。


そんな生活が3年近く続いた。毎日晩ご飯を作って笑顔で待っている生活。だけど。私にはまだ足りなかった。子どもが欲しい。


でも、史人は仕事が忙しいからと結婚2年目くらいから帰りの時間が遅くなっていった。ときには職場に泊まったままのこともあった。


「ねぇ、史人」

ある日、晩ご飯を食べながら話し始めた。

「最近ずっと帰りが遅いじゃない。私は史人との時間を大切にしたいんだよ」

「なんだよ改まって。忙しいって言ってるじゃないか。俺が働いてるから、呑気に晩ご飯作っていられるんだぞ」

「私ね、夢だったの。お母さんみたいに晩ご飯を作って、笑顔で家族を待っている生活が」

「叶ってるじゃないか、おめでとう」

「…そうじゃなくって!」

「なんだよ、疲れてるからもう寝るよ」

史人は寝室へ向かった。私はその後ろ姿を見ているだけだった。


子どもが欲しいって伝えているつもりでも、いつも直接的な言葉を使えない。彼は分かっているのだろうか。私は子どもが欲しい。私はエンゲージリングを取り出して、ドレッサーの上に飾った。世界で一番美しい輝きを、ボーッと眺めていた。


ある日、スーツをクリーニングに出そうと準備していた。窓から入ってくる陽の光が眩しい。スーツのポケットをチェックしていると、1枚の紙切れが出てきた。


−向澤さん、元気?あ、もう三上さんなんだよね。結婚生活、楽しい?向澤さんは楽しんでるのかもしれないけど、三上課長はストレスみたい。私の方が好きなんだって。毎晩遅くまで独占しちゃってゴメンね。生まれてから金にものを言わせて暮らしてたみたいだけど、愛だけは買えないみたいだね。


マルッとした字体が並んでいた。最初は内容を理解できなかった。何度か読み返して、史人が不倫しているのだと理解した。


不倫なんて。そんなの私の夢には入っていなかった。


その日、史人の帰りは珍しく早かった。

「今日は早いんだね」

「ん?ああ、思ったよりも早く仕事が終わってな」

「…相手は誰?」

「…え?」

「誰と不倫してるの?」

「は?何言ってんの?不倫なんてしてない…」

私は今朝見たメモを突き出した。絶句する史人。


「…あいつ何してくれてんだよ…」

「相手は誰って聞いてるの」

「……」

「どうして私の夢の邪魔するの!言ったじゃない、私はお母さんみたいになるのがずっと夢だったんだって。史人は夢を叶えてくれてたのに、どうしてこの女は邪魔するの!だから毎日遅くて、私は張り付いたような笑顔で史人を待ってて。こんなの、描いてた夢と違う!子どもも欲しいのに、全然帰ってきてくれないじゃない。私たちの夢を邪魔する女は誰!?」

堰を切ったように感情が溢れ出した。自分が涙を流しているのに気づいた。きっと、ずっと苦しかったのだ。


「…あのさぁ」

史人が話し始める。私は顔を上げた。

「俺、美沙姫の夢のコマじゃないんだよね。俺には俺の夢があるの、分かってもらえないかな」

「うん、知ってるよ。史人は会社をもっと大きくしたいって、ずっと言ってたもんね」

「それも夢だけどさ、何で美沙姫と結婚したか分かる?」

「愛してるからでしょ?」

「そうだよ、それで、幸せな家庭を築きたいと思ったんだ。だけど、窮屈なんだ。美沙姫の考えている幸せな家庭像と、俺の考えている幸せな家庭像って、絶望的に違う気がするんだよね。だけど、美沙姫は俺に自分の夢ばっか押し付けるじゃん」

「え…」

「覚えてないかなぁ。まだ結婚してないとき、子どもはしばらく欲しくないって言ったの。仕事に集中したいって気持ち、今でも変わらないんだよね。俺は、子どもができたらきちんと育児したいんだ。だけど、今の俺には両立が難しそうに感じるんだよね。だからさ、俺が両立できるようになるまで待っててほしいって。その間は美沙姫もやりがいのある仕事を見つけてほしいって」

史人は言葉を続ける。

「前の会社さ、親のコネで入ったんだよね?それはそれで別に良いと思うよ。だけどさ、俺にはどうも美沙姫が仕事を楽しんでるように見えなかったんだ。合う合わないってあるからさ、美沙姫も仕事の楽しさを見つけられる期間になれば良いなぁって、そう思ってたんだ」


「そんなこと聞いてないよ」

「言ったよ。美沙姫は笑顔で頷いてたよ。美沙姫って、人の話を聞かなくても笑顔で頷いてればそれで良いと思ってるわけ?」

「そんな…」

「いつも子どもの話題をほのめかして。仕事の楽しさを見つけようともしないで。都合の悪い話は聞き流したまま笑顔で頷いて。今まで何やってきたの?親がいないと何もできないの?」


史人は味方だと思っていたのに。私が親に頼ろうと、それを批判しないと思っていたのに。悔しくてまた涙が出た。


「その子が書いてるのは本当だよ。俺はこの生活がストレスだ。何でも親に買ってもらえたのかもしれないけど、俺は買えないよ。優しい女だと思ってたけど、いざ結婚してみると中身がないのにウンザリした」


史人は立ち上がってスーツの上着を着始めた。


「ちょっと、どこに行くの!?」

「疲れたから気分転換してくるよ。俺を夢のコマにするの、やめてよ。親の模倣なんかやめて、2人の幸せを考えられるだけの頭がないのかな」

そう吐き捨てて、玄関に向かった。私は立ちすくんだまま、彼の後ろ姿を見ていた。涙は出なかった。


玄関の鍵が閉まる音が聞こえ、史人は外に出たのだと認識した。


私はクローゼットに向かう。クローゼットには、エンゲージリングが置いたままになっていた。座って眺めていると、眩しいくらい輝いていた。だけどこれは、もう世界一美しくない。私の夢を叶えてくれないから。


スマホを出して母に電話した。

「もしもし?どうしたの?」

「お母さん、史人さん、不倫してた」

「あら、そう…残念ねぇ」

「私の夢、まだ叶うかな」

「大丈夫よ、心配しないで。お父さんに相談してみるから。とりあえず明日は朝一番で役所に行って、離婚届を取ってきなさい」

「うん」


夜中に史人が帰ってきたけれど、私は顔を見なかった。この人は、使えない。荷造りする私に何か話しかけているようだ。

「なんだよ、思ってることがあるならちゃんと言えよ」


話し合うだけ無駄だ。夢を叶えてくれる人じゃないんだもの。


離婚を進めている間に見合い話が何件か決まった。私の夢を本当に叶えてくれる人を見つけなければ。それが私の幸せなんだから。

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