情報爆発

ザード@

重力と情報

 計算するとエントロピーが増大する。これは必然だ。コンピュータを使った計算では最終的に熱が生まれるし、紙で計算しても使用済みの紙が生まれるからだ。では増大したエントロピーは最終的にどうなるのだろうか。過剰な計算は宇宙の熱的死を早めるのだろうか。ある科学者はそれについて考えたが、結論は出なかった。

「究極的にはブラックホールが未解明です」

 その科学者は言う。

「我々の生命活動や、大自然の営みや、あるいは宇宙の動力学によるエントロピーの増大は最終的にブラックホールの内部に溜め込まれ、その一部が重力の効果に逆らって熱力学的に輻射されます」

 そう、そこが問題なのだ。リッチは思う。重力、こいつがまさに曲者なのだ。テンソル計算にはいつもイライラさせられる。そして何より、最も身近にある力にもかかわらずそれは未解明だった。

「情報は究極的には重力に束縛されていると言えるでしょう」

 これがその研究の結論だ。重力の謎を解かなければ計算という行為の正体は掴めない。

「でも重力の正体を暴くには計算を実行する必要があるよね」

 コンソールを開くとチャットが届いていた。

「ミリアか。その通りだ」

「変なの。気持ち悪い。化学ポテンシャルとかに押し込めないの?」

「熱力学の体系の大幅な変更をすることになるぞ。情報エントロピーがどこに行くかと言うと、最終的にはブラックホールの中だと仮定して……」

 言葉も情報だ。今やっているコンソールチャットもまた情報だ。そしてその概念は蒸発し、増大し、宇宙へ向い重力の檻に閉じ込められる。しかしその先は?

「ちょっと、気になることが出来た」リッチはそう言うとミリアとのチャットを中断した。


 そう重力。まさにそれが問題だ。空間自体を定義するある種のパラメータ。あるいは空間の歪みそのもの。今問題にしているのはエントロピーであり、それがどこで何を生み出すかだ。

「ブラックホール内部の量子情報が増大するとして……何が起きる……?」


 天気予報はその精度の上昇で的中率はかなり良くなった。だが、この計算により捨てられている情報も存在するのだ。つまり、多くのはずれの天気予報は破棄されている。これは精度を上げれば上げるほど捨てる情報が増えていくということだ。

 スーパーコンピュータによる天気予報シミュレーションは、当然そのスーパーコンピュータのメモリ上から解き放たれ、熱、すなわち計算を意味する何らかの情報だったものとして、やがて世界そのものを揺るがす。エントロピー増大則だ。


「つまりどういこうことなんです?」

 その発表にメディアは困惑していた。

「ブラックホールが爆発するって花火みたいにってことですか?」

 リッチは質問にどう答えようか悩んだ。どう答えても多大な誤解を招くからだ。発表しないほうが正解だったかも知れない。

「違います。降り積もった情報があるしきい値を超えて相互に識別不可能になった場合、つまりエントロピーが増大しきってブラックホール内部がこれ以上情報を保持出来なくなった場合に、重力の効果を振り切ってそれまでに溜め込んだ情報をいわば無意味なゴミとして一気に吐き出すということです」

 プレスはまたも質問を投げかけた。

「テレビの前の方にもわかりやすく話していただけますか」

「我々はこの文明の発展過程であまりにも多くの情報機器を作りすぎました。いつ何がどうなるかはもう誰にもわからないのです」

「何故それを発表しようと決心なさったんです?」

「政治には興味が無いので」


 計算は何度も繰り返した。それ自体が情報エントロピーの増大を意味すると知りながら。そして結論は変わらなかった。正確な日付は予測しきれないが近い将来一回目の情報爆発が発生する。


「随分な研究をしちゃったわね。街は大混乱よ」

 またもミリアからコンソールチャットが届く。リッチはチョコレートを食べる手を止めてチャットを打ち込み始める。

「天気予報はまだ当たっているか?」

「私に聞くより調べるほうが早くない?」

「そうだな。それにネットワーク自体が情報の塊だ。まだ通信が出来るということは新しい情報が生まれることの出来る証左だ」

「そうね。計算が不能になるなんて本当にあるの? そんな不完全性定理も真っ青な現象本当に起こりうるの?」

「計算上は。ブラックホールが壊れるだけで、情報が熱的死を迎えるという結果が得られた」


 街には出られなくなった。終末を予感する人たちが練り歩いていたし、暴動で大混乱だったし、警察も取り締まりきれていなかったからだ。いわばカオスの極みであり、ある者はそれを生み出したリッチを何とか捕まえようと躍起になっていたし、逆にある者はそれを予言したリッチをまるで神であるかのように崇める始末だった。もはや殆どの都市機能は停止しており、自動メンテナンスのソフトウェアで生活が成り立っている状態だった。

 その日、最初は頭痛がするなと思った。次に喉の渇き。それから今目の前にある計算がトレース出来なくなり、目の前に光が溢れる感覚に襲われる。それから言葉を発せないことを理解する。言葉もまた情報だからだ。意識が平坦になっていくのを感じる。考えを区別するのが不可能になる。すなわち思考が不能になる。


 リッチはいつの間にか街の中を歩いていた。しかし、街にいる人は全員同じ顔に見えるし自分もどこに向かって歩いているのかよく分からなかった。というより歩くという行為自体が識別出来ない。今動いているのは身体のどこだ? そしてこれは俺の身体か? 俺とは一体何だ?

 天を見上げると白い流れが起きていた。過去の夜空を思い出すことは出来ないが、どうもこんな風景は見たことがないらしい。

 情報は溢れていた。しかしそれらは全て無意味だった。何故ならば全てが均一であり識別不能だったからだ。コインを投げれば表か裏かは五分五分で確定する。しかしコインの概念やあるいは表や裏といったものがこの世界ではもはや定義出来ないのだ。

 それからやっと気づく。身体の粒子がバラバラになっていることに。そう、リッチをリッチとして定義している情報はもはやこの世界には存在しない。


 星もバラバラになったので、粒子の身体で宇宙を彷徨っていると、未だ情報爆発を起こしていないブラックホールに流れ着いた。もはやこの世界では時間が意味を持たないのであれからどれだけの年月がったのかは定義不能だ。

「吸い込まれれば救われるだろうか」

 言葉を出すことが出来た。

「そうか、俺はこれから事象の地平面で自分の存在を確定する」

 永遠となったこの世界で、再度の崩壊を自身という座標系では確定させず、その一方で無限に落下し続ける。宇宙は滅んだ。しかし、その一方で――

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