第11話・洗う

 放課後。

 僕は美術室にいた。

 美術の授業で絵が描き上げられなくてその居残りだ。

 昔から絵心がなく、それを大橋さんにも笑われた。

「なんか印象派を意識しすぎた下手なアマチュアみたーい♪」

 悪気もなく率直な意見を言ってしまう大橋さんに、僕は恥ずかしがりながらも黙って絵を描いていた。

 そしてどうにか先生にOKを貰い、今は手にこびりついた絵の具を洗っているところだ。

 なぜか隣にいる大橋さんは僕が石けんで泡立てるのを興味深そうに見ている。

「なかなか落ちないねー」

「うん……。あのさ」

「なに?」

「見てて楽しい?」

「そこそこ」

「……ならいいけど」

 僕が手を洗ってることを楽しめるなら、この世のありとあらゆることは楽しめちゃうんだろう。

 まあそれが大橋さんか。

 そして大橋さんはこんなことでさえお話にしちゃうんだろう。

「ねえねえ篠塚君♪」

 やっぱりきた。

「なに?」

「篠塚君って毎日お風呂で体洗う人?」

「洗うよ!」

「じゃあさ。体ってどこから洗うのが正解だと思う?」

「どこから……?」

「うん。どこから?」

 ……そんなのどこでもいいんじゃ?

「篠塚君はどこから洗う?」

「え? えっと……。どこだっけ?」

 僕はお風呂に入って体を洗う時のシミュレーションをしてみた。

 勝手に体が動く。

 まず石けんを泡立てて、それから……。

「左肩?」

「なんで?」

「……なんでって、右利きだから?」

「わたしも右利きだけど左肩からは洗わないよ?」

「え? そうなの? ならなんでだろう? そういえばいつも左肩から手まで洗って、そこから……」

「右肩?」

「いや、左足かな?」

「ええー! そんなの変だよー。なんでそこで足いっちゃうの?」

 大橋さんは信じられないと抗議する。

「え? 変かな? そこから右足いって、右手に戻ってくるんだけど」

「回っちゃうの?」

「回っちゃってるね」

「変なのー。きっとそんな人、この世で篠塚君だけだよ」

 それは言い過ぎじゃない?

 体の部位なんて限られてるんだからさすがに同じ順番の人がいると思うけど……。

「……そんなに変かな?」

「変だよー」

「じゃあ大橋さんはどこから洗うの?」

 僕が尋ねると、大橋さんは湿っぽい瞳で見つめ返した。

「……篠塚君のえっちぃ~」

「ええ!? だって大橋さんだって同じ質問したじゃん!」

「わたしはいいの」

「なんで?」

「女には許されることも男には許されない。世の中そうなってるんだよ」

 いきなりそんな話されても……。

 僕としては当然釈然としない。

 それでもセクハラで訴えられたら困るので、黙って手を洗い続けた。

 すると大橋さんが疑うような目で僕を見上げる。

「……今、わたしがお風呂入ってる想像してたでしょ?」

「してないよ!」

「うそだよ。そういう目してたもん」

 女の子がお風呂に入ってる想像する目ってどんな目なんだ?

 大橋さんはやれやれと溜息をついた。

「まあ、しかたないか。篠塚君だもんね」

 すっかりむっつりスケベキャラにされてる……。

「だからしてないって! 冤罪だよ!」

「例え冤罪でも起訴されたら九割九分捕まるのが日本なんだよ」

 だからなんでいきなりそんな話しちゃうの?

 怖いんだけど……。

「で?」

「……でって?」

「想像の中のわたしはどこから洗ってたの?」

「だから想像してないって!」

「そういうのいいから。捕まりたくなかったらちゃんと答えて」

 もう脅迫だよこれ。

 僕は渋々想像し始めた。

 いや、じつを言うと何度かは……まあいい。

「どう? 想像の中のわたしは?」

 ちょっと待って。

 今服脱いでるところだから。

 とは言えない。

 僕はところどころ不思議な光に包まれた大橋さんに体を洗わせてみた。

「えっと…………………左肩?」

「それじゃあ篠塚君と一緒じゃん!」

「いや、だって自分以外の人がどこから体を洗うのかなんて分からないって。自然と自分と同じルートを辿っちゃうよ」

「じゃあ次は左足?」

「……うん。そうなるね」

「回ってるの?」

「回っちゃうよね」

「……ヘンタイ」

 大橋さんは照れながらむうっと膨れて僕から視線を外した。

「えー…………」

 言ったらヘンタイで言わなかったら逮捕って、どうすれば正解なんだ?

 それでもここまできたら知っておきたいのが男心だった。

「……で、どこからなの?」

「え? 聞いちゃうの?」

 意外だったのか、大橋さんは顔を赤くして慌てた。

「えっと……まずは…………」

 大橋さんは先程の僕同様に目を瞑ってシミュレーションを始める。

 だけどそれは途中で止まった。

 目を開けると赤かった顔が更に赤くなる。

「そ、そんなの内緒に決まってるでしょ! 篠塚君のバカ! えっち! ほら! 早く手を洗って! それと帰りにタルト奢ること! いい? じゃあわたし先に行ってるから! 早くしてね!」

 そう言って大橋さんは急いで教室から出ていった。

 タルトっていくらくらいするんだろうと思いながらも、僕は先程見た大橋さんの手つきを思い出した。

 まず胸の谷間を洗い、それから左の腋、そして左胸の下へと手が伸びていた。

 なんだかお風呂を覗いてるみたいでこっちが恥ずかしい。

 僕は心頭滅却の為に手をゴシゴシと洗った。

 それでも今日お風呂に入る時は思い出してしまうんだろう。

 大橋さんは胸から洗うんだって。


 追記 体を洗う順番でその人の性格やコンプレックスが分かるらしい。

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