隣の影

夏木

第1話 影


 兄は愛されて育ったと思う。

 両親にとっては初めての子どもとして、祖父母にとっては初めての孫として愛情を注いだのだろう。


 初めての育児。右も左もわからないから過保護になったのかもしれない。

 あれこれ習い事もさせて、優秀な子にさせたかったのだろうか。

 確かに兄は優等生となった。



 兄が生まれてから三年後に僕は生まれた。二人目の子どもには少し扱いが雑になると聞いたことがある。

 服やおもちゃは兄のお下がり。兄にやらせていた学習教材も使い回し。新しいものなんて貰えなかった。

 母が兄の洋服を買ってくるが、兄の好みとは異なっていた。その時には僕の所へやって来る。僕の好みでもなかったが、貰ったのだからと仕方なく着た。

 僕は兄の予備なのだ。あくまでも兄に何かあったときの保険なのだと小さいながらにそう思っていた。



 両親は兄に期待している。念のために僕に似たようなことをさせる。

 もちろん血は繋がっているが、中身は違う。

 兄に出来て、僕には出来ないことがたくさんあった。それを知った両親は、何で出来ないのかと僕を責めた。



 優秀な兄をもつ家族。

 周りからは、幸せそうな家族みえただろう。僕には苦痛だったが。

 だけど幸せ家族はすぐに崩れ去る。



 兄が事故で亡くなった。僕が中学生の時だ。

 兄に期待していた両親は泣きじゃくり、しばらくの間はまるで抜け殻のようだった。


 いつもの生活を送りたくても、送れない。亡くなった時は僕も悲しかったし、元の生活に戻るのは大変だとわかっていた。悲しみは残るけど、ずるずると引きずってはいられない。

 葬儀を終えて父は毎朝仕事へ行くが、母は仏壇に向かって話しかけ続けた。そこに兄がいるわけじゃないのに。

 元の生活を取り戻そうとする父と、亡くなった兄への思いが強すぎる母。いつしかすれ違いが起きて、ついに離婚した。父が家を出て行き、僕は母と暮らすことになった。


 僕は兄の保険と思っていたが、保険ですらなかったようだ。

 母はずっと仏壇の前。僕には目もくれない。たとえ高熱で苦しんでいても何もしてくれなかった。ひたすらじっとベッドで眠って回復するのを待った。

 生きている人よりも死んだ人なのか。僕は一体何なのか。何のために生まれて、今は何をしたらいいのかわからず、胸が苦しくなった。


 母は家事もしなくなった。いや、出来なくなった。

 母方の祖父母は既に亡くなっているため、頼る人もいなかった。料理をして、洗濯をしてから学校へ。母はずっと家にいるため、収入がない。

 僕は進学を諦めた。


 中学を卒業して、早朝の新聞配達、その後は工事現場で働いた。そのお金で何とか二人食べていくことはできた。



 その生活を続け、僕が十八になった頃にやっと母はおかしいと思い始めた。

 いくら最愛の兄を亡くしたとはいえ、仏壇にすがる日々。僕は色々諦めて働く。僕だって人間だ。もっと好きなことしたいし、遊びたい。

 いつか母は元に戻れると思っていたけど、もう限界だった。



 ついに、母に「生きている人よりも死んだ人が大切なのか」と聞いた。

 虚ろな目をしていた母の目からは静かに涙がこぼれ落ちた。

 その日は仕事が終わっても家に帰らなかった。寒い夜、一人で公園のブランコの上で今後どうするか考えてた。


 偶然にもそこへ父がやってきた。

 温かいコーヒーを手渡して、見違えるようになったなって言われたのを覚えている。

 そりゃ成長期だし、変わる。だけど同年代から見たら、栄養失調気味なのか青白い。心配そうな顔をした父は僕に色々話してくれた。



 衝撃的だったのは離婚じゃなくて別居だったということ。生活費も振り込んでたらしい。母からは離婚と聞いてたし、そのせいで進学出来なかったと父に怒りをぶつけると、父は何度も謝った。



 後日父が家に来た。

 母は涙を流した日から少しずつだが家事を行うようになった。僕は父のアドバイスもあって、定時制に通うことにした。母がもう少し回復してから別居を解消するそうだ。


 元の生活に戻るのに、長い年月をかけてようやく目処が立った。

 兄とは似ても似つかぬ僕だけど、兄のようにはなれないけど、やっと僕は僕らしく生きることが出来そうだ。

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