出撃
1905年4月20日0時
ロシア側とベトナム側双方に大きな被害を出した後のバルチック艦隊40隻はカムラン湾外のビンバ島の沖合いで停泊を余儀なくされた。
不本意な形で追い出されるようにカムラン湾を出ざるを得なかったロジェストウエンスキーはイワノフに聞いた。
「艦長、ここは湾内に比べて波が高いな」
「ええ、やはり南シナ海の外洋ですから仕方ありません。今となっては湾内が恋しいですな」
「ところで石炭の補給の終わっていない艦艇はあといくつあるのだ?」
「装甲巡洋艦が4隻、駆逐艦が5隻、水雷艇、特殊船が全部まだ手つかずの状態です」
「そうか・・・いたしかたないな」
本来ベトナム人たちのサボタージュさえなければ石炭の補給は陸上ですべて終わっていたはずであるがこれからは条件の悪い洋上での補給となる。
またチャノフとフランス海軍との交渉でベトナム人労働者が使えなくなった現在、ロシア側の将兵のみでこの難作業を行わねばならなかった。
しかしその将兵すらも昨日の亡命騒動で大半の労働力はいなくなってしまった。
このような状態であったのでバルチック艦隊内のムードは今から決戦に赴く艦隊とは思えないほど沈滞していた。
「よし、艦長、いずれにしても明日からは残った将兵たちで石炭の補給を続けさせろ。そして黒海からの第三艦隊を待つのだ」
「わかりました、閣下。すぐに各艦艇に指示を出します」
次の日からは大波の中でのロシア将兵たちだけでの石炭補給作業がはじまった。
当時の海軍の常識では桟橋の補給と波の高い湾外の補給では作業時間が5倍以上はかかる。
「しかし、フランス海軍も冷たいもんだな」
「ああ、こんな難作業を強要するとはな。しかもベトナム人の労働従事の拠出も拒否したらしいぜ」
「あのときに海に飛びこんでいたほうがよかったかもな」
「ああ、飛び込んだ連中は今頃サイゴンで酒盛りだろう。うらやましいぜまった」
「そうだな、大事な選択を誤ったようだ・・・」
甲板の水兵のこの会話に
「こらあ、さっさと石炭を積み込め!」
左目に眼帯をしたマカロフの竹の鞭の音がした
※
そんなところに朗報が舞い込んだ。
1905年5月9日
「閣下、通信技師から連絡で今朝、黒海を出た第三艦隊からの電波を受けたとのことです」
「なに、やっと浮かぶアイロン艦隊と出会えるのか!で、なんと言っている?」
「今日の昼過ぎにここカムラン湾に到着するそうです」
「そうか、それは悲報続きのわが艦隊にとってささやかな朗報だな、将兵も援軍の到着を見てさぞかし元気が出るだろう。これでやっと彼らと合流ができて日本との戦いに行くことができる」
「そうです、正直あんな一世代前のオンボロ艦隊に励まされるとは夢にも思いませんでした」
同日14時
「艦長見てください、南方から煙が多数接近します」
航海士がイワノフ艦長に双眼鏡を渡す。
「どれ、本当だ、いよいよ第三艦隊の到着だな。よし全艦石炭の補給作業を中止して歓迎の用意をしろ」
「よし、全乗組員に告ぐ、南方より第三艦隊が接近中、補給作業は中止。手空きの将兵は甲板に出てこれを歓迎するように」
その声で艦内はあわただしい靴音が聞こえ始めた。
「おい、どうやら母国から援軍が来たらしいぜ!」
「本当か?おれは正直、人数が減ったので不安だったんだ」
「まあ老朽艦の寄せ集めらしいがな」
「司令官が言ってたぜ『枯れ木も山の賑わい』とさ」
「さあ、その枯れ木を見に行こうぜ!」
カムラン湾を退去させられて19日間何も進展もない補給だけの毎日であった艦隊の将兵にとっては久しぶりの高揚するイベントであった。
報告のとおり南方から4隻の旧型戦艦を先頭に多数の艦影が近寄ってくる。
「あれはおれが5年前に乗っていた戦艦『ニコライ1世』じゃあないか。驚いたなあ。まだ動くんだな」
「あれもおれが乗っていた戦艦『アドミラル・ウシャーコフ』だ。釜炊きのじいさん元気にしているかな?」
「あれはおれの従兄弟が乗っている戦艦『ゲネラル・アプラクシン』だ。退役前の戦艦だと聞いていたがよくもまあこんなところまで来たものだ」
甲板に出た水兵たちはめいめいに興奮して第三艦隊を出迎えた。
お互いの顔が視認できる距離になったとき。思わず双方から歓声が上がった、中には嬉しさのあまりに号泣するものもいる。
「ウラー!」
「ウラー!」
足でまといのアイロン艦隊と馬鹿にしていた艦隊の出現がこんなにもバルチック艦隊の将兵の沈んでいた気持ちを奮起させてくれるとは夢にも思っていなかった。
旗艦スワロフにネボガドフ第三艦隊司令官が挨拶にやってきた。感極まった二人は長い抱擁のあと
「ロジェストウエンスキー閣下、やっとお会いできましたな。お元気そうで何よりです」
「ネボガドフ少将、黒海を出発して約3ヶ月間の航海であったな、遠路はるばるようこそカムランへ。で、長旅はいかがであったかな?」
「はいわが艦隊は黒海を出てその後始めてスエズ運河を通りましたがここを抜けたあとにイギリスの駆逐艦の妨害を受けました。それ以外は暑さを除いていたって快適な旅でした。ところで閣下、当地ではいろいろとイギリスの妨害があったようにお聞きしましたが」
「ああ、イギリスの妨害もそうであるが地元のベトナム人のサボタージュとロシア将兵の反乱があった、最後にはフランス海軍も彼らに手を貸す始末だ、まったく信じられん話だよ」
「そうですか長い航海で軍紀を守らせることは至難の業ですな」
「ああ、ともかくこうして無事に合流できたのだ。貴艦隊の補給をまず急がすように。手が足りなければこちらからも人数を融通するので至急願いたい」
「わかりました、全艦に至急指示を出します」
「ありがとう、よろしく頼む、あとは両艦隊が力を合わせてトーゴーを討とう。今日はお疲れであろう、下がってよろしい」
「わかりました、お互い今度の戦いには全力を尽くしましょう!」
握手をして分かれたネボガドフ少将は連絡艇に乗り、旗艦ニコライ1世に帰っていった。
※
1905年5月19日
第三艦隊と合流して10日後、全ての艦に水と食料、石炭を満載したことを確認したチャノフはノートを見ながらイワノフ艦長に報告する。
「イワノフ艦長、各艦真水、食料、石炭の積載をすべて完了いたしました」
「了解した、ロジェストウエンスキー司令長官に報告するので各自急いで出港の準備にかかるように」
「了解しました」
チャノフの傍らに立つ眼帯をして右手に包帯を巻いたマカロフを見てロジェストウエンスキーは尋ねた。
「マカロフ大尉、その目と右手は大丈夫か?」
「はい、大丈夫であります。とんでもないベトナム人に不覚を取りました」
「なんとロシア軍内の格闘技の師範のお前が負けるとはなあ。よほどとんでもない奴であったのであろうな」
「は、よほどとんでもない奴でありました」
「いずれにしても大変な騒乱であったが各物資の調達ご苦労であった。よーし全艦出港準備、機関始動!」
「機関始動!」
多くの犠牲の上に運び込んだ石炭によってエンジンの釜に火が入り、ごうごうというエンジン音と振動が甲板を通じて足から伝わってきた。
「抜錨用意!」
手旗信号で出港の意図を理解した各艦の艦上でも同じような光景が見られて、40隻余の艦隊はあたかもひとつの生き物のごとく長い眠りから覚めたようにあわただしい声が飛び交う。
「やっと抜錨までにこぎつけたか。それにしてもいまいましいベトナム人たちめ、やつらの抵抗で2週間も遅れをとってしまった。ジェネラル・トーゴーの笑う顔が見えるようだ」
旗艦スワロフの戦闘指揮所内では各艦の動きを見ながらロジェストウエンスキーがつぶやいた。
「艦長、全艦発進しました」
その航海士の声に
「うむ、全艦針路東北東、目指すはトーゴーの待つ日本海!」
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