衝突 2

その日の昼

カールマン大尉の部下ジャック兵曹長がズン村長の家に入っていった。

「おいじいさん、困るな労働条件をしっかり守ってもらわないと」


突然入ってきたジャックの質問に

「どういうことじゃ?」


「どうもこうもない、朝から一人もベトナム人が集まっていないそうだ。それこそどういうことだ?」


「わしゃ、何も知らん。そもそも昨日まではしっかり働いていたそうではないか」


「しかし彼らは今朝は港に来なかったそうだ。これは村の指導者のおまえのミスだ。釈明はあるか?」


「とにかくわしゃ知らん」


「ちっ相変わらず強情なやつめ、ようしズンを引っ立てろ!」


ジャック兵曹長の指示で部下の水兵が乱暴にズン村長の両手に縄をかけて連行した。





午後1時


「おい、聞いたかフランス側から今夜0時までに艦隊の退去要請が出たらしいぜ」

マカロフがスワロフスキーに告げる。


「ああ、聞いた。ということは今日が最期の陸地になるな」


「そうだ、ベトナム人を探しに出た捜索隊はまだ帰ってこない。おそらくベトナム人たちは山地にでも逃げ込んでわれわれの目の届かないところにいるのであろう。俺だったらそうする」


「そうだな、しかし艦隊の湾外退去の指示が出ている以上捜索隊の帰りが遅くなってもいけない。今日はベトナム人捜索はあきらめて中隊に帰還命令を出したほうがいいと思うがどうか?」


「それがよかろう、これ以上フランス政府と余計な悶着を起こしたくないからな」


「おい伝令、急いで捜索に出した中隊を呼び戻せ。われわれは今からカムラン湾外に出るから至急だ!」


「わかりました、しかし昼間から上陸して酒を飲んでいる士官たちはいかがいたします?」


「最期の陸地だ、好きにさせてやれ。その代わり帰りはボートで湾外で停泊している艦まで帰るように伝えてくれ」


「了解しました、それではいまからロマノフ少尉のところに向かいます」

「よし頼んだぞ」





マカロフの伝令が「カニの手」に向かう120名の中隊を見つけた。


「ロマノフ少尉、マカロフ大尉から捜索の中止命令がでました」


「そうか、もっとも捜索なんて最初からしていないがな。ところでマカロフたちは我々の動向に感づいていなかったか?」


「それは大丈夫です。まだマカロフ大尉はわれわれの行動にまったく気づいていません」


「そうか彼らもまさか貴様も反乱分子の一人とは夢にも思わないであろうな。あわれだな」


ロマノフと中隊は伝令を引き入れて予定通り『カニの手』に向かった。


しばらくすると前方に『カニの手』が見えてきた。中からは相変わらず騒々しい声が聞こえている。


「中隊止まれ、今から隊を2つに分ける。半分は正面、半分は店の後方に回りこめ。静かに店を包囲してやつらの退路を遮断するのだ」


「は!」


その声とともに静かに多数の兵士が移動して『カニの手』を包囲した。店内でその動きに気づく者は誰一人いなかった。





「おう、どうやら今日が最期の陸地になりそうだぜ」


「聞いたぜ、明日からはまた湾外生活だ!」


「まあ考えてみればベトナムってぇところもいいところだったな」


「ああ、女も素直で良い子だった」


「カニの手」ではフランスからの退去の要求を聞いた士官たちが集まり30名ほどが大いに最期の陸地を満喫していた。


「失礼します、ロマノフ入ります」


その声に手勢を連れたロマノフ少尉が店の中に入っていった。


「どうした、ロマノフ少尉?手勢を率いての見回りか?ご苦労だな。どうだこっちへ来て一杯飲むか?」


旗艦スワロフの艦長が手招きする。


「これはこれは各艦の艦長全員がお揃いですね。昼間から宴会とはうらやましい限りです。イワノフ大佐、お楽しみの最中ですが全員手を上げていただきたい」

ロマノフが率いる120名の中隊が店を挟んで銃を構えた


「冗談はよせ!これはどういうことだ、ロマノフ少尉?」


「どうもこうもありません、われわれは全員堪忍袋の尾が切れました」


「貴様気でも狂ったのか?」


「これだけの過酷な長旅です、気も狂いましょう」


「血迷ったか、貴様の父親は忠実なロシア海軍軍人だろう?」


「ええ確かにそうでした、しかし今では部下の罪を償っておかげさまでシベリアの炭鉱堀りです。さあみなさん銃をこちらへ」


ロマノフの部下たちが全員の銃を取り上げた。


「貴様こんなことをしてただで済むと思っているのか?」


「思ってはいません、私も軍人なのでロシア軍法により死刑になることは熟知しております。しかし戦場にこのまま行けば同じくわれわれはただではすみません。どちらを選んでも同じ事です。このような気持ちをわれわれに抱かせたロシア海軍をあなたがたは恨むべきです。さあ全員こちらへ」


ロマノフの部下が酒場で飲んでいた将校全員の銃を取り上げて全員を店の前に並ばせた。その周りを武装した部下が取り囲んだ。





店主のファットはいきなり始まったこのやりとりを見てただおろおろするばかりである。


「おい、クアン兄い、こりゃ一体何が始まったんだ?」


「さあ、銃を持った奴がこれだけ集まってすげぇ剣幕で話をしているんだ、どう考えても穏やかな話ではないな」


「流れから察してここらが潮時かな?」


「ファットお前もそう思うか?」


「思う、手仕舞いだな」


「しかし少し早くはないか?」


「もともと1週間の予定がたったの1日減って6日間になっただけの話だ、こんなものは想定内だろ。しかし手仕舞うにしてもおれはさらに一儲け考えたぜ」


「なんだ、今度の悪だくみは」


「女たちには今まで働いた給金を約束どおり3倍の値段で今ここで支払う」


「それじゃあ悪だくみでもなんでもねえだろが。むしろそれじゃあいい奴だろうが!」


「違うんだ、話はここからだ。そこで奴らには3倍の金額のロシア軍票を手渡す。すると奴らはどう言うか想像つくか?」


「多分あいつらのことだ『こんな使えないお金は要らないわよ!馬鹿にしないで!』だろな」


「そうだ、そこで『わかった、現金で欲しいなら2倍の金額になるがいいか?』と聞き返す。どうだ?」


「なるほどな、あいつらは多分訳のわからない3倍の金より間違いなく2倍でもベトナムの金が欲しいと言うな」


「そしたらおれ達はもっと利益になるよな。兄貴、ところで奴らに支払うだけのベトナム通貨は持ってるか?」


「ああ、今はないがニャチャンの家に行けばそれくらいはあるぜ」


「ようし決まりだ、今日で店じまいだ。ロシア野郎から貰った札は半分がカールマンとチャノフの手数料だから残りの半分を今ここで2人で折半しようぜ」


「なるほどなぁ、しかしよく思いつくなぁ。本当にお前にゃあ勝てねえな」


「よっこいしょっと、重いなあまったく。ほらよこれが全部兄貴の取り分だ。今からこれを持って女たちとニャチャンに帰る支度をしてくれ。しかしまあよくもこれだけ稼いだもんだな、これでお互い4、5年は遊んで暮らせるな」


「しかしファットひとつ大事なことを聞きたいが、この軍票てぇのは間違いなくベトナムの通貨に換金できるんだろうな」


「あたりまえよ、それどころかカールマン大尉が言ってたぜ。『今度の日本との戦いにもしロシアが勝ったら軍票の価値は今よりも2倍にも3倍にもなる』ってな。だからおれはしばらく換金せずに楽しみに持っておくぜ」


「本当かそれは!ロシアが勝てばおれたちゃさらに儲かるのか?しかしもしも日本が勝ったらどうなるんだ?」


「兄貴よう、あそこに浮かぶ堂々とした大艦隊を見ろよ!あんなのに東洋の小さな国の日本が勝てると思うか普通?常識でものを考えてみろよ!とにかくおれの今の気持ちは『ロシア海軍がんばれ!日本海軍くそ食らえ!』だ」


「そうだな、昔日本人てえのは300年前にホイアンに住んでいたことがあるそうだ。おれのホイアンの親戚が言うにはなんでもやつらはベトナム人よりもさらに小さな体型だったそうだ。こりゃどう考えてもロシアが負ける気はしねえな。じゃあ、おれもおまえの言うとおり日本との戦いが終わるまで換金せずに楽しみに持つとするかな」


「ああ、そのほうがいいぜ」


「しかしそうなるとおれたちの利益はいくらになるんだ?まったく計算もできねえぜ。ファットありがとよ、またいい儲け話があったら必ず教えてくれよな」


「ああ、またロシアとどこかが戦争してくれればの話だがな」


「おうい女たち集まれー!仕事は今日でおしまいだ、今からニャチャンに帰るぞー!金のことなら心配するな」


クワンが大声で女たちを集めて説明をはじめた。





「イワノフ艦長そしてその他の艦長のみなさん、この際はっきり申し上げましょう!あななたたちの敵は日本海軍ではありません。今までさんざん虐げてきた私たちロシア国民なのだということを今の酔った頭で理解できますかな?」


「なにを言い出す、貴様!軍法会議だぞ?」


両手を挙げたイワノフの言葉に

「軍法会議結構です!ここから法廷は3万キロ離れていますが、どうぞお好きに裁いてください。覚悟はできています」

「貴様、少尉の身分でなぜこんなことをするのだ?貴様もわれわれと同じ仕官の待遇を受けていたはずだ。言ってみればこちら側の人間だろうが」


「確かにおっしゃるように私は仕官です、しかし少尉という身分は一番水兵たちに近い階級です。毎日艦上で彼らに指示を出すのは私たち少尉の仕事です。また毎日彼らの不平を直接聞くのも少尉の仕事です。あなたたちに毎日理不尽な仕事を与え続けなければならない下級仕官のこの苦労がわかりますか?」


「なにを!少尉の分際でえらそうに言うな、それが軍隊というものだ!」


持っていたグラスを床に叩きつけて戦艦アリヨールの艦長が怒鳴った。


「そうです、それが軍隊です、しかし軍隊にはこのような謀反もつきものです。いかがですかな」


「わかった、とにかくそちらの要求を聞こうか」


イワノフは観念した様子で尋ねた。


「要求は3つです

1つ 艦隊はロシアに引き返す事。

2つ われわれはここに残り亡命を希望する。

3つ 亡命後フランス政府にわれわれの身柄の引渡しを要求しない事。

以上です」


「そんなばかな要求が呑めるか!そんな要求を呑めば今後は軍隊として機能しなくなる」


「今のこの状況を見てもそれが言えますか?ようし全員銃を構えろ!」


「ザッ」


中隊全員の銃が囲みの中心に向けられた

「で、回答は?」


「わかった、ロマノフ少尉とりあえず銃を降ろせ。話せばわかる」


「立場がわかっていないようですね。降ろせではありません『降ろしてください』です」


「わかったロマノフ少尉、銃を降ろしてください」


「よし、銃をおろせ。今から全員捕縛して戦艦スワロフに向かう。この人質たちを空になった給炭船に乗せておくように」


「は!」


その言葉とともに120名は将校全員を後ろ手に縛りカムラン湾のほうに歩かせた。



午後4時


「これが戦艦スワロフか・・・実際に乗ってみるとやはり大きいのう」


村長のズンはフランスのジャック兵曹長に後ろ手を縛られてスワロフのタラップをあがった。


「感心している場合か、貴様は抵抗するベトナム人労働者の人質だ。さあ入れ!」


ジャック兵曹長は痩せたズンの背中を乱暴に突き飛ばした。


「チャノフ大佐、村長のズンを連行しました」


「ご苦労、下がっていいぞ。ジャック兵曹長、カールマン大尉によろしく伝えてくれ」


「わかりました、失礼します」


ジャック兵曹長が敬礼をしてチャノフの部屋を去っていく。


「さてズン村長、今回私は生まれて始めてベトナムという国に来た。そもそもベトナム人というのは言う事を聞かない国民性なのか?」


「いや、やることの正当性を理解すれば世界一従順で勤勉な国民じゃ」


「言いますね、では今の仕事には正当性がないと?」


「正当性どころか人間としての尊厳をまったく感じられんわい」


「わがロシア海軍が人間性がないとでも?」


「ああ、まったくそのとおりじゃ。普通の人間は人間性のない者の言うことなど聞かん。あたりまえのことじゃ」


「しかしあなたの祖国ベトナムはフランスのいいなりになっているがこれはいかがかな?」


「ベトナム政府の考えまではわしは知らん、わしらは何千年も前から毎日のように普通に魚を取って普通に暮らしているだけじゃ。そこに政治的な難しい駆け引きは何もない」


「フエのバオダイ帝は違うご意見のようですが?」


「わしはこんな辺鄙な村の長じゃぁ、バオダイ帝なんて会ったことも見たこともない。要はわしが言いたいのは国が違っても人間と人間は心が通じるかどうかだけじゃ。わしの教え子たちにもいつもそれを伝えている」


「そうでしたな、ズン村長はたしか先生でもありましたな」


「ベトナム国民にとってフランスもロシアも心が通じない以上は味方とは思わん、当たり前じゃ。なぜこんな簡単な事もわからない国が自慢げに1等国とか名乗る資格があるのかわしゃ不思議じゃ」


「残念です、教養あるズン村長とはもっと有意義な会話が出来ると思っていましたが期待が外れました」


「それはどうもじゃ」


「いすれにしてもご高説は賜りました。我々はフランス側の要求で今夜0時までに湾外に退却しなければならない。明日からの石炭の補給は洋上での作業となるが引き続きベトナム人には働いてもらわなければならん。村長、彼らにそう指示をするんだ」


「なんと、湾外に出ても同じあの作業を続けるのか?」


「我々には決まったノルマがある。それが終わるまでだ」


「ノルマノルマとまったく・・・やれやれじゃのぅ」


「あなたは貴重な人質ですのでわたしの部屋でお休みになってください。ただし警護には1人つけますので悪しからず」


「ガチャン」


鉄製の重いドアが閉まりズンは戦艦の一室に幽閉された。


「よしよし、ここまでは今関羽の作戦通りじゃな」

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