皇帝 ニコライ2世

当時の帝政ロシアは強大な「陸軍国家」として有名であった。




そもそも陸続きのヨーロッパではイギリス以外は隣国の侵入に対して海軍よりも陸軍を重視していた。




ロシアの隣国は当時一流の陸軍国家であったプロイセン(現在のドイツ)であった。




皇帝ベルヘルム率いるプロイセン国家と、ニコライ2世率いる帝政ロシアとは当時蜜月時代ではあったとは言え右手で握手しながら左手ではナイフを偲ばせるというのは大陸国家では常套の手段であった。




この時代の世界地図は、イギリスがアフリカ南東部、インド、ビルマ、シンガポール、香港、オーストラリアを塗りつぶし、フランスもアフリカ北部、マダガスカル、インドシナと蚕食しオランダはインドネシアを蝕んでいる最中であった。




ロシアは北半球から地球を眺めた場合、その版図は横長で長大であるために大西洋、太平洋、黒海と同時に目を光らせる必要性があった。




そのためにロシア全艦隊を3分して「太平洋艦隊」「黒海艦隊」「バルチック艦隊」とそれぞれ命名したのである。




太平洋艦隊は本拠地を極東の不凍港ウラジオストック港として今回の日露戦争時においては旅順港にさらに分散させて駐留している。




なおウラジオストックとはロシア語で「極東を征せよ」という意味でいかにこの港にアジア征服をロシアが期待していたかがわかる。




黒海艦隊は正式名称を第三太平洋艦隊といいトルコとの間で起きた露土戦争によって得た占領地セバストーポリ港を本拠地にしていたが戦力的には副次的な拠点と見られており港内に浮かぶ艦隊はどれも一線を退いた老朽艦ばかりが配備されていた。




「浮かぶアイロン」と揶揄されるほどおよそ実践には不向きな時代遅れの艦船を集めた艦隊であるがこの物語の後半ではカムラン湾で主力艦隊と合流することになる。




バルチック艦隊は正式名称を第二太平洋艦隊といいロシア大西洋側のリバウ港(現 フィンランド)を本拠地にして大西洋の睨みとともに首都サンクトペテルスブルグ防衛の重要さがゆえに常に最新鋭の戦艦・巡洋戦艦を配備していた。




ここまでを書くと「なぜ大西洋担当のバルチック艦隊がわざわざ遠路日本海まで来る必要があるのか、そもそも日本海軍相手には太平洋艦隊の備えがあったのではないか」という当然の疑問がわいてくる。




ロシアが首都の防衛を放棄してまで虎の子の艦隊を東洋に派遣せざるを得なかった理由は開戦時には拮抗していた彼我の戦力比のバランスが日本海軍の奮戦によって崩れ去ったことである。




当初の第一太平洋艦隊は十分に日本海軍に伍する火力と速力をもつ能力と老将マカロフという智謀長けた司令官が指揮する堂々とした艦隊であった。




日本海軍もこの戦力は評価しておりこの艦隊が健在である以上満州への陸軍兵の輸送に支障をきたす恐れがあった。




しかし開戦後まもなく起こった黄海海戦によってマカロフ将軍は戦死、最新鋭戦艦1隻が日本側が仕掛けた機雷に触れて沈没という事態が起こった。




またその後日本陸軍第三軍による死力を尽くした203高地の攻略後、旅順港に停泊している太平洋艦隊に向けて陸上からの過酷なほどの砲撃が加えられて旅順艦隊は全滅し、本拠地ウラジオストックに残す数隻以外は作戦行動ができないような状態であった。このことによって日本海を含む日本列島の周辺海域は日本帝国海軍の制海権となり、軍艦はもとより満州における兵員や食料、弾薬などの補給物資の海上輸送の安全が補償されることになった。




逆にロシアにとっては海軍だけの話ではなく陸軍の戦いにも支障をきたすような事態に陥ったことになる。


この報を受けたロシア海軍司令部は大慌てでバランスの調整のために3万キロという気が遠くなるほどの遠距離を推してでも艦隊を派遣することになったのである。


しかしここで問題になったのは「誰」をこの無謀ともいえる遠征軍の司令長官に抜擢するかという人事であった。当時のロシア帝国内部は大国が陥る「慢心病」にかかっており、皇帝ニコライ2世をして「マカーキ(猿)の軍」と呼ばせせしめていた極東の国の日本海軍に対して本気で情報を集めて、真剣に作戦を立てて戦いに挑む気質は皆無といってよかった。しかもウラジオストック艦隊が敗れた後でさえもこの気質は改善されることなく誰もがまさに鎧袖一蹴「バルチック艦隊は行くだけで勝つ」という考えが蔓延していた。


ニコライ2世には日本でのいやな思い出があった。


1891年、彼は皇太子のころ親善のために1度日本へ来たことがある。軍艦パーミャチ・アゾーヴァに乗り神戸港に着いて京都観光の後、大津で琵琶湖見物の日であった。滋賀県庁で昼食を摂った後、街道を大勢の日本人がロシア国旗をふりかざす中、一行が通り過ぎたときに津田三蔵という警備の警官がいきなり人力車に乗ったニコライをサーベルで切りつけてきたのである。


この事件で右側頭部に9センチの傷を負い顔面から血を流したままニコライは治療のために京都の病院に駆け込んだ。この報を聞いて慌てた日本政府は賠償金の支払いや領土の割譲までも視野に入れた。この事件でその後のニコライの東京訪問は中止になった。


この報を聞いた明治天皇までもニコライが宿泊する京都の常盤ホテルに見舞いと謝罪のために出向き、さらにもう1回ニコライが帰国するときに周りが「人質として拉致されるから」と止める声を振り切って神戸に停泊する軍艦にまで謝罪に訪れるほどであった。


当時の日本がいかにロシアという大国を恐れていたかがわかるエピソードである。


その後皇帝になったニコライ2世は当時の日本の野蛮さと天皇を含む日本政府の慌てようを目の当たりにしていたので「東洋のサルごとき」という認識は当然のことであったろう。




当時海軍少将であったロジェストウエンスキーは艦隊戦の経験の無い宮廷内の生粋の官僚主義者であった。彼の得意とする海は日本海ではなく皇帝のご機嫌を取ることだけが毎日の関心ごととなっているロシア社交界という海であった。如才ない社交術と持ち前の端正な顔立ちからロジェストウエンスキーはロシア皇帝ニコライ2世の寵愛を受けていた。


バルチック艦隊を極東に派遣することを決定した最終閣僚会議においてニコライ2世は「誰がその司令官になるか」とその場に居並ぶ海軍の将軍たちを見回した。将軍たちの脳裏には30000キロ、40隻、7500名、石炭の補給、日英同盟、ゲネラル・トーゴーなどさまざまな後ろ向きな言葉が瞬時に浮かびそのひとつひとつが彼らの挙手を妨げたのである。


その沈黙の長さに落胆の色を隠せないニコライ2世の顔を見ながらおもむろに立ち上がったロジェストウエンスキーはゆっくりと答えた。


「陛下、私が参りましょう。そしてご希望通りわが精鋭の艦隊と将兵たちの手によって黄色いマカーキを打ち滅ぼしてご覧にいれます」


その儀礼に乗っ取った彼の言葉を受けて


「おお卿か、卿が行ってくれるのであれば余も安心である」


とニコライ2世はあっさりと快諾したのであった。


実際この時のロジェストウエンスキーの本音はどうであったのだろうか。誰が考えても無謀な距離と補給の困難さを乗り越えて激戦に行くことは不可能なことぐらいいかに世情に暗い皇帝でも理解していると考えて「もうしばらく行くのを待て」という回答か「その無謀な旅に卿を出すのには偲ばず」という回答を期待したのではなかっただろうか。


いずれにしてもロジェストウエンスキーの思惑は外れこの瞬間あっけなくサイは振られたのである。

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