ロジエストウエンスキー

同日夕方 司令部食堂にて


「ロジェストウエンスキー閣下、お疲れは取れましたでしょうか?」


重厚な大きなテーブルをはさんでジョンキエルツが尋ねた。


「うむ、おかげで疲れは取れたが、まるでまだ船の上にいるようだ。今でも体が揺れているように感じる」


「それはそうでしょう、マダガズカル島以降約1ヶ月間も船の上でしたから当然です。私も船乗りですからよくわかります。で、お話をいろいろとお聞きしたいのですがまずは長旅はいかがでしたか?」


「うむ、昨年10月15日に母国のリバウ港を出港して以来まるで地獄のような旅であった。とにかく今はイギリス政府のすべての所業がうらめしい限りである」


「お言葉ですが閣下、ドッガーバンクの事件では漁師2人が死亡、6人を負傷させられたとしてイギリス政府のほうが『狂犬艦隊』と呼ぶほどロシア艦隊をうらめしいと思っているとお聞きしていますが実際はどのようなものだったのでしょうか?」


「かの事件で亡くなったイギリス漁船の船員たちには申し訳なく思っているが、あれも元はと言えばイギリスの罠にはまったようなものである」


「罠・・・と申しますと?」


「出港以来イギリス情報部は、ドッカーバンク付近で日本の駆逐艦か水雷艇が出没していると言うデマを流したのだ。もっとも今となっては排水量の小さな駆逐艦や水雷艇が日本から遠くイギリスまで来ることが可能かどうかぐらい子供でもわかることだが我々はこのデマにまんまと踊らされた。」


「で、濃霧の中での誤射となった」


「そうだ、すべて霧とデマが誤認させたのだ。しかも誰も撃たなければ何もなかったのだがカムチャッカという艦から放ったたった1発が全員のパニックを引き起こしたのだ。どのくらいパニックであったかというと実はここだけの話ではあるが同士討ちも多数起こったのだ。戦艦アリョールは味方の巡洋艦オーロラに砲弾を5発命中させて乗っていた従軍司祭の片腕を吹き飛ばしたほかにも同艦にけが人が相当数出ておる」


「そうですか、それは大変でしたね、お話を聞くだけでも同情を禁じえません。しかしその事件であなたたちの敵対国の日本はうまいこと株を上げましたね」


「わが艦隊が引き起こしたドッガーバンクの事件で日本国が株を上げた?その話は初耳だぞ。詳しく教えてはくれまいか」


「閣下は、洋上に長くいたので知らないのは当然でしょうが、事件の翌日漁船団の根拠地のハル市内で亡くなったイギリス人漁師たちの葬儀が行われたのです。その折にタイミングよく東京市長のミスター・オザキが弔電を打ってきたので日本のこのすばやい対応に英国民は感動したのです。それに反してロシア政府からは謝罪も含め何の反応もありませんでした」


「なんと、わが艦隊のかの行動が国際世論をして日本を持ち上げることになったとは・・・それに比べてわがロシア政府の対応の拙さは・・・」


「ではこの情報も多分初耳かと思います。昨年12月にわが国のパリで行われたバルチック艦隊のドッガーバンク事件の事実確認を行う国際審査委員会での結果が出ています。貴国はイギリス政府に6万5000ポンドの賠償金の支払いとすべての損傷させた船に変わる新しい船の提供が決定しています」


「そうか・・・カムチャッカの馬鹿砲手が放ったたった1発の誤射がまったく高くついたものだ。しかしいまいましいイギリスめ!次の寄港地のスペイン・ビゴー湾でもそうであった。イギリスはスペイン政府に圧力をかけて突然我々のビゴー湾での上陸と石炭補給作業を中止させたのである」


「そうでしたか、その次はわが領土アフリカのダカール港でしたね。これはこちらの軍令部から話は聞いています」


「そうだ、貴国のダカールではドイツの石炭船10隻と合流できたのであるが3万トンの石炭の補給を貴国は波の高い洋上で行うように通達してきた。洋上での補給作業は筆舌に尽くし難い困難が伴った。おそらくこれもイギリスの圧力と思うがいかがかな?」


「おっしゃるおりです、我々は最初からダカールでは『見て見ぬふり』作戦を決め込んでいました。貴艦隊が湾内で秘密裏に補給が行われるように祈っていたのですが運悪くドイツ船がダカールに向かうことがイギリスの情報部経由で世界にばれてしまったのでわが国も抗議を受けて苦渋の選択をせざるをえませんでした。何卒ご理解ください」


「ああ、わかっておる。しかしそのような悪環境の元でもなんとか補給を完了させて、我々はついに喜望峰を越えることができた。左にケープタウンのテーブルマウンテンを見た時は年甲斐もなく自然に涙が出てきて、思わず神に感謝したものだ」


「喜望峰といえばすべての船乗りが恐れる波浪と暴風雨が多発する難所です。その暴風雨の中を性能がまちまちの艦隊を率いて潜り抜けるとはこれ自体がもう偉業を達成したと言えることでしょう」


「そう言ってくれるだけで気持ちが楽になった。やはり船乗り同士とはうれしいものだ。しかしその喜望峰を過ぎ去ったそのあとのマダガスカルがまた問題であった」


「我々の領土ですからわかっております。当初われわれはマダガスカル島最大の都市ディエゴスワレス軍港を寄港地にご用意していました」


「うむ、聞いておった。このときは乗組員全員が久しぶりの上陸を期待し、また貴国の友情に心からの感謝をしたものであった。しかし結果は艦隊の補修ができるディエゴスワレス軍港ではなくノシベなどという文明とはおよそかけ離れた片田舎の港に1月9日から3月16日まで約2ヶ月間も停泊させられたのである。ここでは暑さのあまりに発狂した仕官が数名出た」


「申し訳ございません、このときもわが政府へのイギリスからの猛抗議が原因でした」


「今となっては貴国には憤りはない、すべてイギリスの仕業と理解しておる」


話をする二人の前に司令部附きの一流シェフによる豪勢なフランス料理のコースが次々と運ばれてきた。部屋一杯に地元の名物ビンバ・ロブスターと香ばしいスープの香りが立ち上った。


「ご理解いただきありがとうございます。まあその罪滅ぼしといっては何ですがここカムラン湾では閣下はわが司令部をお使いになって十分に休養と食事を取って英気を養ってください。明日からはベトナムの労働者を400名ほど集めましてご希望の石炭の補給を1週間で終わらせる予定であります」


「うむ、ジョンキエルツ少将今日無事にこの地に上陸させてもらい、またこのような豪華な食事を出してもらえるだけでも今までの旅と比較したらまるで天国のように思う。神よ感謝いたします」


ロシア正教の敬虔な信者であるロジェストウエンスキーは胸で十字を切った。


「私も船乗りのはしくれです、海で困ったときはお互い様です。遠慮なさらずに私のいるここカムランだけでは存分に羽根を伸ばしてください。さあ、せっかくの料理が冷めてしまいます。召し上がってください」


「ありがとう、恩にきる。しかし、まさかとは思うがまたもや情報を知ってイギリスが貴国に圧力をかけてくるのではないのかな?」

優雅な宮廷式作法でナイフとフォークを使いながらロジェストウエンスキー尋ねた。


「大丈夫です、石炭の補給は昼夜をとおして1週間あれば計算上可能とお聞きしました。わずか1週間では彼らの調査もここまでは届かないでしょう。ご安心ください。それとも何か補給以外にこの地で目的がおありですか?」


「そうだ、ロシア海軍省のはからいで東洋のサル退治に黒海にある第三太平洋艦隊を応援によこすよう通達があった。ご覧のようにわが艦隊だけでも十分にやりあえる自信があるのだが念のいったことだ。その艦隊との待ち合わせ場所がこのカムラン湾となっておるので補給が終わっても会合までここで逗留をしたいのだ」


「わかりましたロシア海軍は念には念をいれて日本との戦いに臨まれるというわけですね。トーゴーは相当手ごわい相手とわれわれも聞き及んでいます。第三太平洋艦隊との会合までこの場所をお使いください」


「何度も痛み入る。今日ほどフランスの友情を感じた事は今までにない」


「ところで閣下、第三太平洋艦隊とうまく合流できたとして日本のトーゴーの艦隊との勝算はいかがなものでありましょうか?ご存知のように貴艦隊の勝敗には世界中が耳目を集めています。私どもとしましてはフランス製の軍艦がイギリス製の軍艦を海の底に沈めていただいて世界中の評価を得たいと思っていますが」


「正直ここに来るまではイギリスが醸し出した世界世論の厳しい風やロシア海軍省の段取りの悪さ、艦隊内部の無秩序などで自信が無くなる時もあったが、今日貴殿のカムランに上陸でき将兵ともに英気を養うことが約された以上本来の力以上のものを発揮できるであろう。もちろん東洋のサルごときはまさに我々が戦場に行くだけで鎧袖一触で殲滅することをお約束する」


「その力強いお言葉に艦の設計を請け負った国としまして、また同じ同盟国として安心いたしました。さきほど湾内で貴艦隊の戦艦群の威容を見ましたがバルチック艦隊と戦う日本のトーゴーが気の毒に思えてきました。さあ、今日はお疲れでしょうから最後にこのワインを空けてからお休みになってください。わたしの故郷ボルドーからの逸品です、さあどうぞ」


「すべてのご配慮に感謝する」


「それでは閣下のご健勝とロシア・バルチック艦隊の勝利に乾杯!」


「フランスの友情に乾杯!」

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