居酒屋 カニの手

同日、夜


サイゴン司令部からデカルトに乗って来たオズワルド大佐とカムラン司令のカールマン大尉は酒場「カニの手」で酒を酌み交わしていた。長身のオズワルドは陽気な海軍でも人一倍陽気で豪放磊落な男と言われており痩せて小柄なカールマンの体型と性格はその対極に位置する。


「オズワルド大佐、石炭の補給に関してですが私が明日ズン村長のところへ説明に行く手はずになっています」


「カールマン、カムラン司令として貴様の立場は大変だな、同情する。しかしここだけの話だが、ロシアの連中相手にそんなにも真剣になる必要はないとおれは考える、要は当たり障りなく職務を適当にやっていればよろしい」


「しかし本国のデルカッセ外務大臣の打電とポール提督の話では露仏同盟のよしみで丁重に迎える必要があるとありましたが?」


「それが開戦当初ならともかく、国際世情に鑑みて今のロシアにそこまでする必要があるかどうかが怪しくなってきたのだ。今のロシアはわが国が真剣に力を貸すに足る相手かどうかがおれには疑問だ」


「大佐、わが国フランスとロシアは同盟国ですよね、相手のピンチはこちらのチャンスといいます、困ったときに貸しを作っていたほうが何かと後々のためにいいのではありませんか?」


「まあまあそういきり立つな、この戦争の序盤は確かにそうだった、なにせロシアは世界一の陸軍を持っている国だからな。しかしクロパトキン将軍率いるロシア陸軍は満州で行われた日本陸軍との奉天大会戦で絶対的多数による優勢にもかかわらず大負けを蒙ってしまった。その結果この戦争の帰趨は両国の海軍の総力戦にもちこまれたのだ。世界中は今から行われる両国の大海戦の行方を見守っているのだ。フランス政府の偉いさん方は負けるとわかってるほうにわざわざチップを張りたくはなかろうよ」


「しかしわが国の植民地、このカムラン湾での充分な支援が無かったためにその艦隊決戦に支障が出て最悪、日本海軍に大敗を喫した場合には我々は責任の一端を迫られるのではないでしょうか?」


「カールマン、お前も海軍士官だ。常識で考えて長距離移動に不向きな戦艦たちを3万キロも引っ張ってきて休養と訓練が十分な日本の艦隊とまともにやりあって勝てると思うのか?」


「ですからなおのこと兵員の治療と迅速な要求物資の積み込みを協力してやって日本の艦隊に勝たせないといけないと思います。これはアジア人種が白人種に勝てないことを見せつけるためにも我々は総力を上げてロシアに協力するべきです」


「アジア人種と白人種か・・・・それも一理ある。しかしあの艦隊ときたら母港のリバウ港を出港した途端にドッガーバンクで同じ白人種のイギリスの漁船たちを日本の艦隊と見間違えて誤射をしたばかりか何隻かを沈めてしまった馬鹿者達だ。イギリスはこの件に関して現在も本気でロシアに抗議しており日英同盟があろうとなかろうと戦争も辞さずという態度に出てきていることは貴様も知っているであろう」


「ええ、もちろん新聞は毎日欠かさず読んでいますから知っています。そのための報復としてイギリスはバルチック艦隊の寄港地でかずかずのいやがらせを行ったと聞いています、その結果として艦内では病人または死人さえも出ていると聞きました。相当の長旅とイギリス政府のいやがらせと、石炭補給の重労働で心身ともに疲れ果てた姿は同じ海軍軍人として見るに耐えません!私も海軍軍人のはしくれであります、また海軍軍人である前に一人の船乗りでもあります、船乗りは困っている船乗りを助けるのは海の常識です。彼らの治療と補給を万全にして日本との戦いに送り出してあげるべきです。これは劣等アジアの人間に対するイギリスを除くヨーロッパの諸国の総意だと信じます」


いつになく熱く語るカールマンを前にして腕を組んだオズワルドは目を開いて語った。


「よかろう、ただしひとつだけ条件がある、戦艦と巡洋艦だけは桟橋への接岸は許さん、石炭の補給は海上にて石炭補給船を使用して行うように。これは諸外国に対してのフランスはロシア艦隊を全面的には支援していないというぎりぎりの意思表示である」


「ご理解いただけてありがとうございます。しかし戦艦と巡洋艦の補給を海上でやれと・・・これはますます重労働と時間を要求します。桟橋補給と海上補給ではおよそ5倍も効率が違います。彼らは早急に日本と戦う必要があります。大佐のお言葉ですがこの条件も現地司令官として却下させていただきたい」


「強情だな、カールマン」


「はい、強情です!大佐」


「わかった、そう熱くなるな。それではここは現場司令官のおまえの強情さに譲るとするか。なあカールマン、仕事をもっと気楽にやれないものか?」


「いえ、これが私の心情ですから」


「よし、カールマン、貴様の決意はよくわかった、その熱い気持ちはポール・ボー総督にも伝えておくことにするので明日からは貴様の思いの通りやるがいい。いずれにしても人員の確保だけは早くするようにな」


「はい、早速明日の夕方、カムラン村長のところに出向き荷役用の人数の確保をさせます。そして急ぎロシア艦隊の要望どおりの補給を済ませるように手配いたします」


「うむ、すべて任せたぞ」


「了解しました」


立ち去るオズワルド大佐に海軍式の答礼をした後にカールマンは残っていたビールを一気に飲み干した。


「おやじ、勘定だ」


「はいはい、毎夜ありがとうございます。今日は珍しく上官が来られたようで。いつになく難しい話をなさってましたね」


「そうだ、サイゴンから来たおれの上官にあたるオズワルドという大佐だ。先週のこの店での乱闘騒ぎは不問に付された。おやじ、それよりいよいよ今週中にでも例のロシアの白熊が大勢やって来るぞ。準備はちゃんとできているのか?」


「もちろんです」


「それはよろしい」


「ところであの・・・カールマン大尉殿に折り入ってお話があるのですが。少しお時間をよろしいでしょうか?」


笑顔で揉み手をするファットの質問に


「何だ、急にあらたまって」


「その・・・艦隊がきたあとですが、ロシア海軍の軍人さんを大勢この店に引っ張ってきてはもらえませんでしょうか?」


「なに、この私がか?」


「もちろんタダでとは申しません、紹介手数料をしっかりお支払いさせていただきます。それともお国のフランスではこういう習慣はございませんでしょうか?」


「紹介手数料か・・・悪くはないな。なにしろ大尉に昇任したとはいえ軍の給与だけでは本国への仕送りがこころもとないところではあった。で、白熊たちを引っ張ってきたらどのくらいの紹介料がもらえるのか?」


「売上の20%でいかがでしょうか?」


「ファット、お前は商売をしているからもっと頭がいいと思っていたが売上の20%では話にならんな。考えてもみろやつらはこの世の最期の金だから相当ふっかけても飲み食いするんだぞ。まして大人数が入る店は村にここしかないだろうが。そうだな利益の折半ではどうだ、悪い話ではなかろう」


「わかりました、さすがのカールマン大尉には勝てませんや」


「ところでお聞きしますがロシアの水兵の支払いはどこの国の通貨でするのでしょうか?」


「さあ、普通はロシアの通貨ルーブルだろうが場合によってはロシア軍票の場合もありうるな」


「軍票といいますと?」


「正式には軍用手票といってその軍隊が戦地や占領地での支払いや艦内での給与支払いの場合に切る手形のようなものだ。おそらくロシアのやつらは艦内の今持っている軍票全部を使い切って決戦に臨むはずだ。あの世まで金は持っていけないからな」


「軍票ですか・・・しかしそんなものもらっても換金できなかったら何の意味もないじゃあないですか?」


「心配するな、そのときは私の司令部に来い、その日のレートでフランにでもベトナムの金にでも換金してやるから安心しろ」


「それは便利だ、安心しました。ではそれでいきましょう。よろしくお願いします」


「ああ、毎晩のように大勢の客を連れてきてやるから安心しな。それより酒と材料をしっかり調達しておくんだぞ。あとは給仕に若いベトナム女性を大勢用意する事だな、これでやつらは毎晩ここにやってくる。またそのようにロシアの担当官に私から念を押しておく」


「そこは商売です。わかってます」


「よし、ではこれで商談成立だ。うまくやれよ」


「ありがとうございます。酒、材料、給仕の女の調達すべてまかせてください」


密談が終わったカールマンは司令部へと続く道へと出て行った。


この夜ファットは村のみんなから虐げられていた自分の人生の中でやっと大きなツキがめぐってきたことを確信した。カムラン村は貧しい漁師の町である。昔からここの漁師の不文律では単純に腕力のある人間を評価するならわしがあった。背が150センチと低く腕力も学力もないファットは子供のころからカーやシンなどの力自慢の子供たちにとってかっこうの『いじめ対象』にされていたのである。


唯一『いじめ側』とのあいだに入って彼をかばってくれたタンを除いてファットはこの村の漁師達全員に抱く気持ちは恨みしかなかった。しかしロシアの艦隊のおかげで今は彼らを見下せるような富が短期間で入ってくると計算したのである。

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