サイゴン司令部



「ガタン、シュー」


大きな音はダラット駅からサイゴン駅までの200キロあまり走った汽車が停止した音である。


「閣下、起きてください。サイゴンに到着しました」


いつのまにか眠ってしまったジョンキエルツ少将の前に座っていたオットー少尉が告げた。


「うむ、眠ってしまったようだな。サイゴンに着いたか、ところで今何時だ?」


「もう夜の11時です、到着まで7時間ばかりかかったようです」


オットー少尉はジョンキエルツにかけた毛布をたたみながら身支度を始めた。


「よし、今からすぐに海軍司令部に行くぞ。馬車の用意はできているか?」


「はい、すでに手配済みです。オズワルド大佐がお迎えに来ているはずです」


深夜の人気のないサイゴン駅で、未だに湯気の上がる汽車を降りた2人は、プラットホームに立つ背の高い海軍士官の姿を捉えた。


「閣下、お帰りなさい。長旅お疲れ様でした。馬車が向こうに待っていますのでこちらへどうぞ」


長身のオズワルド大佐は敬礼したあと軽々とゴルフバックを受け取った。


「オズワルド大佐、出迎えご苦労。電報は読んだ、その後本国からメッセージは入っていないか?それと明日のデカルトと護衛の駆逐艦2隻の出航用意はできているか?」


「は、本国からの通達はその後特にありません。あとは現場の我々にすべてを任せるつもりでしょう。ただハノイのポール・ボー総督からは、補給物資は水、食料、石炭すべて総督府のほうで手配するとのことで、こちらは補給手段だけを考えるようにとのことでした。また遠路はるばるやってきたロシア艦隊を露仏同盟のよしみで丁重にお迎えしろと重ねて通達がありました。巡洋艦デカルトのほうはご指示通り明朝9時に抜錨予定であります。現在機関はすでに始動させていますのでご安心ください。」


街の中心部より外れたサイゴン駅からフランス海軍司令部までは馬車で15分の位置にある。


3人を乗せた馬車は、人通りの絶えた石畳の街路を走り、ひときわ目立つフランスの国旗を掲げたインドシナ総督府サイゴン支庁(現在 ホーチミン市役所)を超えたところで右折してフランス人の娯楽用に建てられた白亜のオペラハウスを左横に見ながらサイゴン川河畔のフランス海軍司令部(現在 ホーチミン市トンドックタン通り)に到着した。


この建物は第二次世界大戦中は旧日本海軍サイゴン司令部として使われた経緯があり、松永貞一中将がイギリスの不沈戦艦「ウエールズ」と「レパルス」を航空機のみで沈めたマレー沖海戦の指揮を取った場所である。


その後現在は外壁を黄色に塗り替えられてベトナム海軍サイゴン司令部としてその姿をとどめている。



門の両脇に立ち敬礼する衛兵に迎えられた馬車は司令部の玄関に横付けされた。


「オズワルド大佐、今から緊急会議を行う。巡洋艦デカルトのピエール艦長は呼んであるか?」


「は、事が事ですので明日からの作戦行動に関しての命令を待つように中の作戦会議室で夕方からピエール艦長以下士官全員待っております。」


「よろしい」


オットー少尉がドアを開けた。


「ガチャン」


大きな音がして作戦会議室の厚めのドアがゆっくりと開いた。


「ザッ」


大きな部屋の中心に鎮座する円卓に座っていたピエール艦長をはじめとする航海長以下12名の士官が立ち上がった。


重要な会議なので全員がすでに純白の海軍第一種軍服に身を包んでいる。


「閣下、お待ちしていました。オズワルド大佐からおおよそのことは聞いています。われわれに明日以降の作戦をご命令ください。」


「うむ、深夜にご苦労ピエール艦長、そして諸君。まずは座りたまえ」


「聞きましたよ閣下、いよいよロシアの馬鹿艦隊がいよいよここに来るそうですね」


フランス海軍士官学校時代の1年後輩であったピエール艦長は、同郷出身というよしみもあって隣に座ったジョンキエルツに人懐っこい笑顔で語りかけた。


「そうだ、すでに諸君の耳に入っているなら話は早い。ロシア帝国はいよいよ虎の子の艦隊を東洋の黄色いサルに向けて送り込んできた。やつらは1週間以内にカムラン湾に入るらしい。明日、貴殿は巡洋艦デカルトをカムラン湾に向けて出港させるんだ、護衛には駆逐艦2隻をつける。私も同行するので道中はよろしく頼む。本国の意向ではやつらより先にカムラン湾に到着して丁重にお迎えしろとのことだ」


「了解しました。3時間前に出港準備はすでに整っています。彼らをお迎えしたあとは我々はロシア艦隊に対してはどのような態度を取るおつもりで?」


「いい質問だ。諸君も知っての通り、日露戦争開戦当初はわがフランスは、露仏同盟のよしみで陸軍大国のロシアの機嫌を取ることが国益に利すると判断してそれに専念していた。その証拠に喜望峰を回るルートを取ったロシア艦隊に対してわが国は彼らの通り道にあるフランスの植民地の港を開放して迎え、水と食料の補給の手助けをしていた。しかし4月現在、われわれを取り巻く状況は極めて微妙である」


「微妙・・・といいますと?」


「まったく信じられない話ではあるが経済力、軍事力ともにわずか10分の1の東洋のサル相手にあのロシアが苦戦を強いられているのだ」


「閣下、私は日露の戦争に関して新聞ではある程度把握しているつもりですが、現在の戦況はどこまでひどいのでしょうか?」


さきほどまで黙っていたジャン航海長が尋ねた。


「ジャン航海長、君は確か日本海軍の戦力に詳しかったな。開戦時、ロシア海軍と日本海軍の戦力比はどのくらいの差があったのか?」


「は、かつてのトルコとの戦争で海軍力の重要性を知ったロシア海軍はこの10年間で戦艦等の最新鋭大型艦を新造しています。そして現在その総力を世界に3分しています。ひとつは極東のウラジオストック、ひとつは黒海、ひとつは本国のバルト海です。日本海軍戦力調査担当班の私の見立てでは単純に考えて日本の3倍の戦力が有ったと考えていいでしょう」


「そのとおりだ、黒海の艦隊は旧型艦で構成されているから何ともいえないが少なくとも数の上ではあきらかに戦力比は3倍以上である。それどころか極東のウラジオストック艦隊だけでも優に日本海軍と対等に戦えるとも言われてきた。しかし昨年の8月10日の黄海海戦とその4日後の蔚山沖海戦によってこの互角とも言えるウラジオストックの極東艦隊が全滅したのは知っての通りであろう」


「ええ、もちろん聞いております。当時「日本艦隊恐るべし」と世界中の多くの新聞が書いてありました」


「数が多いからといって常に勝てるとは限らないことは我々も同じ船乗りとして肝に銘じておくことではある。おそらく日本海軍はかなりの訓練を積んで実戦に挑んだと考えるべきだろう。またうわさに聞くととんでもない威力の火薬を発明して砲弾に装填しているそうだ。つまるところ日本は量より質で勝ちを収めたと考えてよい。いずれにせよ今回ロシアはその穴を埋めるために本国の防衛を犠牲にしてまで虎の子の艦隊を送ってきたというわけだ」


「海軍関係の話は私は専門なのでよく理解できますが、大陸で展開している陸軍のほうはどうなっているのでしょうか?」


「我々の尊敬する大先輩ナポレオン将軍でも勝てなかったロシア陸軍だが、ノギという将軍の指揮下で、今年1月に難攻不落といわれた旅順要塞が落とされてしまった。この陥落によって旅順港に停泊していた艦船はすべて陸上砲台からの砲弾の餌食となってしまった。その後この戦争を左右するといわれた3月10日の奉天の大会戦でも総大将のクロパトキン将軍はあと一押ししていれば勝てたと言われている戦いにあろうことか戦闘を放棄して北に敗走してしまった。ロシア側はこの敗走を戦略的な名誉の退却と言っているが世界中はこれを敗走としか思っていない」


「あの常勝将軍といわれたクロパトキン将軍が敗走ですか?日本陸軍はそこまで手ごわいのですか?」


「そうだ、窮鼠猫をかむという例えの通り手ごわい。そもそも日本は最初からロシアに勝つことは考えていない、よくて引き分けに持っていこうとしているのだ。考えても見ろ、国力比10対1であれば仮に引き分けても世界はそれは日本の勝利と捉えるであろう」


「要するに海に、陸にロシア軍は相当被害を受けたのですね」


「そうだ、だから現在世界世論はこのたびのバルチック艦隊と日本艦隊の決戦に、日露両国のすべてがかかっていると判断しておる」


ひととおり各々の参加者からの質問に答えたあとジョンキエルツは咳払いをした。


「よろしい、諸君日露の戦いの詳細は以上である。要するに大国であるロシアが弱小国日本に負けている、そして両国の命運は今まさにこちらに向かっているバルティック艦隊の戦闘にかかっているということだけ理解してくれたまえ。今はこの情報をもとに我々は慎重に行動するべきである。よって諸君に今から2つの立場から作戦を命令する。1つ目はフランス海軍の軍人としての立場から。もう1つは仏領インドシナ行政府の行政官としての立場からだ」


「解せませんな閣下、“作戦は常にわかりやすく”が閣下の主義だったはずですが。2つの立場からといいますと?」


付き合いの長いジョンキエルツの性格を熟知しているピエール艦長は尋ねた。


「よし、全員にわかりやすく説明してやろう。ピエール艦長、仮に貴殿に大金持ちの親戚がいるとしよう。当然貴殿は彼とはいい親戚づきあいを保ちたいので言うことは何でも聞くだろう。しかしある日突然彼が破産してしまい借金取りに終われる身となったら貴殿はどういう対応を取る?」


「急に言われましても・・・そうですな、まあとりあえずは距離をおきたいですねぇ」


「今のフランスとロシアの関係がまさにそれに当たるのだ。いいか現在約40隻の艦隊はマダガスカル島のわが領土ノシベ港を発ってからどこにも寄港できずにこのカムランにやってくる。距離にして15000海里(約2万5000キロ)の灼熱の航海をして将兵たちは疲弊しているはずだ、場合によっては艦内には死人も出ている可能性があるだろう。露仏同盟のよしみと同じ船乗り仲間のよしみとしては、ここは十分休憩を取らせた上で先方の要求どおり水、食料、石炭の補給を十分に行ってやりたい。しかし行政官の身分であれば水、食料、石炭すべては我がフランスの所有物であり財産である。また地元のベトナム人を使役に使うのもまた財産の一部を供与することになる。このよしみを行うことによって日英同盟の関係からイギリスはわがフランスに対して猛抗議をしてくるであろう。それに、何万キロも海の上にいた荒くれた水兵たちが7500名も上陸してみろ、カムラン村の治安維持はどう考える?」


「なるほど、今となってはロシアは借金取りに終われる身となった没落貴族ですか。けだし明解ですな。しかしフランス政府としても対処に苦労しているでしょうな。今回の支援要求を無碍に断るとロシアに睨まれる、甘い顔をすると英国に睨まれると。ロシアを取るか英国を取るか大変ですな。いずれにしても村の治安維持は重要項目ですので私の部下が取り締まります」


「そうだ、ピエール艦長。まず君の部下200名たちをカムラン湾到着後、陸戦隊として組織してくれ。そして各自に実弾を装備した銃を与えて明日出発のデカルトに乗り込ませるように。カムラン湾に到着次第、司令部のカールマン大尉と彼の部下20名と共同して各部落ごとに武装した兵を配置して村の治安維持に努めるように。配置場所は現地に長く住んでいるカールマンの部下がよく知っているであろう」


「了解しました、部下たちはすでに全員がデカルトに乗艦済みです。また実践用の実弾を装填した小銃も全員に与えてあります。部下たちはロシアと戦いが始まるものと勘違いしていましたよ。で、先ほどの話の船乗りとしてのよしみのほうはいかがいたします?」


「奴らの司令官は昇進したロジェストウエンスキー中将であったな。同じ船乗りとしての温情で艦隊が停泊中は我が軍のカムラン司令部の私の公室を与えるように。食事もできるだけいいものを出すように。その他の士官も全員同じ建物内の士官室を与えて十分英気を養ってもらうように配慮しろ」


「閣下、承知しました。それは私が受けもちます、現場のカールマン大尉に指示を伝えます」


ジャン航海士がメモを走らせながら簡潔に答える。


「あとは、水、食糧、石炭の補給関係だな。物資そのものはポール総督が調達してカムランまで送るということだが何分とんでもない量だ。しかしまあこんな機会はめったにないので、せいぜいロシア軍相手に高値で売りつけて大儲けしたらいい、これも総督のお手柄になる。あとはカムラン到着後の艦隊までの石炭の荷揚げ作業だが・・・オズワルド大佐、現在カムラン司令部に所属している荷役作業用のベトナム人は何名いる?」


「は、カールマンの部下が約10名ほどのベトナム人を毎日の荷役業務に使っています」


「ロシア側の要求は1週間でやり終えるようにとのことだ。短期間で相当な数の物資の荷揚げ作業になる、ロシアの水兵も当然死に物狂いでやるだろうがこちら側が10名では話にならんな。最低その10倍は必要だろう、カムラン村の力のある若い男をできるだけ多く徴集しろ。これは我々が徴収するより村の顔役に任せるほうが話が早いだろう、カムラン村の村長の名前はなんという?」


「は、たしかレ・バン・ズンでした」


「ズン村長か・・・人集めは彼に任すしかないだろう、ところで彼は村民からの人望はあるか?」


「はい、彼は昔から村で無償の私設学校をやっており村民のほとんどは彼によって読み書きを教えてもらいました。ですから村民は彼を親か先生のように思って慕っています」


「よし決まりだ。不本意ではあろうが彼に荷役人徴集の役目をしてもらおう。また作業員には相応の手当てを用意するように。そうだな全員に1日1フラン(現在の貨幣価値にして約500円)の日当と3回の食事を出してやれ。なあにこれもロシア側に上乗せして請求したらいい」


オットー少尉がポケットから懐中時計を出して時間を確認しようとした。


「オットー少尉、今何時になった?」


「は、閣下午前1時を回ったところです」


「よし、諸君今日の作戦会議はこれで終了する、必要な指示は全て与えたつもりだ。あとは明朝9時に抜錨後、デカルト艦内にてカムラン到着までの間にもう一度指示の確認をする。今日はゆっくり休養をとってくれたまえ。以上、解散!」


「ザッツ」


一斉に席を立った将校たちの敬礼に見送られながらジョンキエルツは階下の私室に向かった。


廊下を歩くジョンキエルツにピエール艦長が後ろからささやいた。

「閣下、実際のところ閣下はバルチック艦隊が勝つと思ってますか?」


「ああ、ピエールか、本音を言えば白人種仲間としてはロシアには是非勝って欲しいが正直苦戦するだろうと見ている。まあわれわれのカムランでの補給ともてなし次第だろうな」


「わかりました、私も同感です。それではおやすみなさい」


「ああ、おやすみ。明日はよろしくな」

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