ベトナムから日本海軍への贈り物

胡志明(ホーチミン)

バルチック艦隊

「カラン」


パターを離れたボールがゆっくりと絶妙の軌跡をたどってカップインした音だ。


「トレビアン パー」

「トレビアン!!」

「パチパチパチ」


同行している友人たちのプレーヤーから思わず一斉に拍手が起こる。


ここベトナム・ダラットパレスゴルフ場はフランス軍がサイゴンに進駐した際にフランス人ゴルフ愛好家たちの余暇と軍人や官僚たち上流社会の社交場として造られたベトナム最初の名門ゴルフコースである。


愛好者はフランス人ばかりではなく当時のベトナム阮王朝最後の皇帝バイダイもこのコースをこよなく愛したことで有名である。


この名門コースを擁するダラットはサイゴンから北西に200km離れた標高1600メートルに位置する高原都市で、年中真夏の気候のサイゴンから避暑に訪れるフランス人のためにわざわざ当時珍しかった鉄道まで設けた人工の町である。


熱帯地域に属するベトナムでは珍しい針葉樹に囲まれた山々に形成された盆地の町の中心にあるのが現在でも観光名所となっているダラット湖だ。


この盆地の底に位置するおだやかな湖を囲むように瀟洒なホテルや別荘、フレンチレストランが多数立ち並ぶ姿はまるでここがベトナムでなはくフランスのボルドーかどこかの地方都市かと錯覚させる。


ダラットパレスゴルフ場の最終の難関ホールを見事にパーで終えたフランス海軍植民地省高級将校ジョンキエルツ少将は、満足げに友人たちの拍手に片手を上げてこたえたときにクラブハウスからグリーンに大慌てで駆け寄って来る侍従武官のオットー少尉の姿をみつけた。


ゴルフ場のグリーンに映える金色の髪を持った恰幅のよいこのフランス人は今日の自分の50歳の誕生日を記念して、サイゴン在住の気の置けない友人たちと誕生パーティを兼ねてゴルフを楽しんでいたのであった。


息せき切って走ってきたオットー少尉はカップインしたボールを手に取るジョンキエルツ少将にむかって大声で叫んだ。


「閣下、たった今本国から緊急電報が入りました。至急お読みください」


ゴルフコース内においてのフランス貴族社会のたしなみから外れた彼の無粋な行動に対して。


「オットー少尉、見てのとおり今は友人とのゴルフの最中である。ちょうど今終わったところであるからよかったものの、あまりにも無礼ではないかな?しばらく待つことはできなかったのか。私のよき友人である君の父親が見たら自分の教育が足らなかったと悲しむぞ」


「失礼しました、私も一読しましたがなにぶん内容が内容でしたので一刻を争うものかと判断したもので。」


「よしわかった、読もう。我がよき友人諸君、しばし無礼を許してくれ」


オットー少尉から受け取った電報を一読したジョンキエルツ少将はさきほどの好スコアで終えたばかりの満面の笑顔から瞬時に鎮痛の面持ちに変わった。


受け取った電報には。

「本日より一週間以内に昨年10月ロシアの軍港リバウを出港したロシア海軍のバルティック艦隊が約40隻、貴殿の担当する仏領インドシナ・カムラン湾に寄港する。わがフランスとロシア両国の同盟のよしみにより貴殿は至急巡洋艦デカルトに座乗してこれをカムラン湾内で祝砲を打って丁重に迎え入れ、ロシア艦艇各艦に対しての水、食料、無煙石炭の補給作業の協力を命ずる。石炭はインドシナ北部ホンゲイから汽車にてサイゴンまで運送後、石炭補給船に移し変えた後にカムランまで急行させること。また同艦隊内に負傷者、病人がいればこれを優先して治療するように。

発 フランス外務省 外務大臣 デルカッセ 

宛 フランス海軍植民地省サイゴン司令部 ジョンキエルツ少将」


「うーむ」


悩んだときの彼のくせであご髭をさすりながら電報を読み終えるのをオットー少尉が見届けると


「閣下、いかがですか?私が内容が内容だけにと言った理由がご理解できましたか?」


「うむ、せっかく今日の休日は私の誕生日記念にゴルフ三昧と友人との会食を満喫するつもりであったがそれどころではなさそうだ、ロシアからの誕生日プレゼントはとんでもないお荷物になりそうだな」


ジョンキエルツ少将はつぶやいた。

「閣下、お荷物とは?」


真意を測りかねたオットー少尉は怪訝そうに聞き返す。


「バルチック艦隊のことだ、やつらのおかげでこれから忙しくなるぞ。したがって今日のパーティは中止とするのでゴルフのメンバーには私からそう伝える。私の誕生日祝いで催したパーティの主役がいなくなるのだからしかたなかろう。オットー少尉、サイゴン司令部・司令オズワルド大佐とカムラン司令部・司令カールマン大尉にすみやかに以下を連絡しろ。明日サイゴン港に停泊中の巡洋艦デカルトの出港準備、総員武装のこと、祝砲弾用意、抜錨は明朝0900、行き先は北東カムラン湾だ」


聞き漏らすことがないようにとオットー少尉はジョンキエルツ少将の命令を紙に書きつけながら尋ねた。


「明日の出港だと今から至急ダラット駅に連絡してサイゴン行きの汽車を支度をさせましょうか?」


「うむ、急ぎ頼む、とにかく今日中にはサイゴンに帰れるようにしたい」


このやりとりからわずか1時間後にはスポーツウエアから純白の海軍制服に着替えたジョンキエルツ少将は、世界で初めてフランスが開発に成功したばかりのド・ディオン・ブートン社製のガソリン自動車に乗り込んだ。


当時のベトナムにわずか1台しかなかったガソリン自動車はダラットパレスゴルフ場から5キロほど離れたダラット駅に向かった。


その移り変る車窓からはダラット高原一帯に広がる針葉樹の牧歌的な光景が一瞬ではあるが彼に日本帝国と帝政ロシアがまさに両国の国運をかけた大海戦を控えていることを忘れさせた。


わずか10分ほどで車は黄色を基調としたおとぎ話に出てくるようなダラット駅に到着した。


出迎えに来たフランス鉄道省の車掌の案内で一番奥にある特等席にオットー少尉とともに座ったジョンキエルツ少将はさきほどまでのゴルフの疲れが出たのか出発後まもなく知らない間に眠りについていた。

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