水鏡ナイトメア

 少年は五感を閉じるように、水たまりに飛び込んだ。おそれるな。

 無への墜落。深く、深く、深く、深く。なにも見えない。なにも聞こえない。なにも感じない。それなのに深く、深く、深く、深く。沈潜していくその暗さだけは伝わってくる。

 窮余の策として実行された集団下校は、子どもたちの相次ぐ失踪に対して、なんらの効果もあげなかった。蛇のようにうねる列。見張るように立つ大人たち。私語は禁じられている。もちろん、形式的な禁忌だ。幼子おさなごらのとりとめのない語らいは、だれにも止めることはできない。

 最初に消えたのは女の子だった。歯を矯正している最中で、金属的な笑顔が愛らしい少女だった。友達と二人で、仲よく帰り道を歩いていたという。二人は道ばたに落ちていた空き缶を蹴りながら、世界平和について議論していた。いわく、人がいるから争いが起きる。人がいなければ争いは起きない。だから、みんな死ねば平和になる。ハッピーエンド。

 もちろんこれは概略であり、議論にはさまざまな紆余曲折があった。無意味な議論で、無意味な結論だった。少女二人の戯れ言だった。そして問題はそこではない。

 この街は疫病特区だ。住民に未来はない。幼い子どもたちにすら、絶望は浸透している。夢すらもみられない環境下では、とりとめのないお喋りにさえも、死刑台のユーモアがついてまわる。

 歯を矯正中の女の子は、憂さ晴らしのように空き缶を蹴った。空き缶は二、三度跳ねて、水たまりに落ちた。ぱしゃん、と音を立てて、空き缶は完全に姿を消した。その消え方にはどこか不自然なものがあった。はてな。空き缶の全体が隠れるほどに、この水たまりは深いのかしら。

 少女たちは足を止めて、その水たまりを覗き込んだ。鏡のように澄んだ水面みなも。二人のいぶかしげな顔が映っている。綺麗、と片方が言った。自画自賛? と片方が笑った。

 違うよ、水のことだよ。

 わかってるよ。透きとおっていて、鏡みたいだ。

 鏡よ鏡よ鏡さん、世界でいちばん美しい死体はだれ?

 水死体!

 そんなわけないじゃん。土左衛門どざえもんは、肌が溶けて膨らんで、髪も抜け落ちて眼も飛び出して、とても醜いっていうじゃない。

 見たことあるの?

 お母さんがね。

 ふうん。お母さんって、民生委員だっけ?

 そう。

 なるほどね。

 うわあああああああ、とだれかの叫び声が空気を裂いて、ごしゃりと鈍い音がした。少女たちは振り返った。道の向かい側に老人が転がっていた。上半身がありえないほど反り返って、海老えびのように曲がっている。もう死んでいるか、死にかけているようだった。高層階の窓から、言葉にならないような怒声が響いた。突き落とされたらしい。

 ありゃりゃ、この辺りも物騒になってきたね。早く帰ろう。

 片方の少女は、もう片方にそう呼びかけた。返答はなかった。

 アリサ?

 振り向くと、歯を矯正中の少女は見当たらなかった。ついさっきまで一緒にいたはずなのに、泡のように消えていた。気配も痕跡もなかった。

 鏡のような水たまりに、ぷくぷくと泡が立っていた。取り残された少女はそれを見つめた。息をのむように注視した。いまは、映っているのはひとりだけだ。いぶかしげな少女の顔。もうひとりは? もうひとりはどこに?

 少女は手をのばした。魅入られるように、水たまりに指先を浸した。そのまま手を沈めていく。第二関節。手首。肘。二の腕。そこまで沈めてみても、水たまりの底には触れられなかった。底があるのかもわからなかった。

 顔を青ざめて、少女は水たまりから腕を引き抜いた。突き落とされた老人を見ても涼しい表情だった少女は、不気味な深淵の発見に、年相応の怯えを見せた。助けを求めるように、その場を走り去った。

 これが、最初に消えた女の子についての話である。もちろん大人は信じなかった。空き缶と少女を呑み込んだという水たまりは、どこにも見つからなかった。片割れの少女は虚言癖を疑われ、苛烈な尋問を受けたが、失踪した少女の行方はわからなかった。

 そして子どもたちは、次から次へといなくなった。集団下校もなんのその、帰り道の途上で、いつのまにやら姿を消していた。大人たちのあいだには、諦めの空気さえ漂い始めた。そこかしこの教室のそこかしこの机に、花が置かれるようになった。もう帰らない子どもたち。世界から消えていく子どもたち。

 そして少年は、いじめられていた。親からも教師からも同級生からも。なぜなのか? 少年に落ち度があったのか? 少年は癇に障るような言動をとったのか? 少年の出生に問題があったのか? 少年はだれにとっても異物だったのか? それは重要なことではない。少年には、この世に執着も未練もなかった。それだけが重要だった。

 そしてある日のある夕暮れの帰り道。トイレに監禁されて、ようやく脱出してひとりでとぼとぼと歩いていた少年は、その水たまりと出会う。鏡のように澄んだ水面。病んだ世界にぽっかりと空いた出口。少年はためらわなかった。

 深く、深く、深く、深く。少年は落ちていく。なにも見たくない、なにも聞きたくない、なにも感じたくない少年は、深く、深く、深く、深く、落ちていく。眼を開くと、そこは深海の楽園だった。魚のように寄り集まって、満ち足りたような表情で落ちていく子どもたち。死に向かって沈む落下傘部隊。少年はいちばん手近にいた同胞を眺めた。歯を矯正中の少女は落下中のいまもにっこりと金属的な笑みを浮かべていた。初めて恋に落ちた少年は、深海の青にまぎれるようにいまも死に向かって落ちていた。

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