第二十一章⑩ 冷たい雨の中で
泥水を撥ね上げながら、ベブルは走った。
視界が酷く悪い。雨は最早、滝壺のような降り方だった。
まだ目的地は見えない。
一瞬だけ、空が光った。そしてそれに遅れて、轟きが聞こえる。
明るかったのは雷の墜ちた一瞬だけだった。また視界は、薄暗い闇の中に沈む。
服の袖で濡れた顔を拭く。その服もすでにずぶ濡れで、少しの水も吸うものではなかった。
仲間たちのもとへ辿り着いたベブルは愕然とした。ウェルディシナは地に伏して呻いている。ディリアは何とか立っているものの、衰弱しているために戦線から離れている。
オレディアル、ウィード、そしてスィルセンダは、なぜかウォーロウと戦っている。だが、三対一であるというのに、明らかに劣勢だ。ウォーロウにはどんな攻撃も魔法も通用していない。ウィードの魔剣は途中から折れてしまっている。
そして、ムーガはフィナを抱きかかえて、水溜りに座り込んでいる。
胸騒ぎがして、ベブルはムーガたちのところに駆け付けた。このときにはすでに、宙を舞う“光”はなくなっていた。ウォーロウが回収したのだ。
「おい、どうしたんだ、ムーガ!」
ベブルが駆け寄ると、うつむいていたムーガは頭を上げる。だが、雨に濡れた長い桃色の髪が、彼女の顔を隠していた。
「デューメルクは——」
途中まで言って、ベブルは口を噤んだ。
フィナは血塗れだった。腹も、胸も、そして口も、顎までも。
ムーガは顔を上げ、傍にやって来たベブルを見上げる。彼女の服もまた、真っ赤な血に染まっていた。彼女の顔は、引き攣っている。そして、両の頬を、冷たい雨と熱い涙とで濡らしている。
「ベブル……」
言葉と共に、急にムーガの表情が崩れる。ただただ泣いているのだ。涙が溢れ、いつまでも止まらない。
ベブルには、なにも言うことができなかった。完全に、彼の中の時間が停止していた。
そんな……、馬鹿な。
ムーガの声は震えている。いや、彼女は嗚咽の中で、言葉を押し出しているのだ。
「フィナ……死んだぁ……」
抱えられているフィナは、血塗れで、泥塗れで、力なく雨に打たれ続けていた。両目を開けたまま。大量の血を流し続けたまま。
身を守ることも忘れて、ウィードはウォーロウに打ち掛かっていた。魔剣が折れていようが、そんなことは関係なかった。
「よくも、よくも、よくもフィナさんを――ッ!」
ウィードの魔剣を、ウォーロウは素手で受け止める。
「怒ることではないだろう? この世のものは、すべて幻影でしかないんだ。悲しむことはないだろう? ここにあるのは全部嘘なんだよ。その悲しみも、すべては嘘なんだ。僕がフィナさんを愛していた……、その気持ちもすべて、ただのまぼろしに過ぎなかったんだ!」
ウォーロウはウィードの魔剣を奪い取り、その柄で彼を打ち据えた。ウィードは地面に叩き付けられる。水飛沫が飛ぶ。
「痛いか? だがそれすらも、まぼろしだ」
「なにが、まぼろしですって?」
スィルセンダが“
「わけの解らないことを言わないで! フィナさんを殺しておいて……、なんなのその言い草は!」
スィルセンダは全力で、もう一回魔法を浴びせたが、やはり効かなかった。
だがそのあと、ウォーロウは横様に吹き飛んだ。物凄い勢いで走ってきたベブルに、こめかみを殴られたのだ。
「ウォーロウ、てめえ……」
ベブルは怒りに、息を荒くしていた。力が込められた両肩が激しく上下している。
ウォーロウはようやくベブルの登場に気づき、嗤いながらまた宙に浮き上がる。
「ベブルじゃないか。そんなに慌てて、どうしたんだ?」
「ふざけるな! なんでデューメルクを殺したんだ!」
ウォーロウは声をあげて嗤う。
「なんで? 空想するのをやめるのに、理由が要るのか?」
「空想だと?」
ウォーロウは自分自身の頭を指差す。
「ああそうさ。この世界は全て、ゆめまぼろしだ。お前たちはただの、空想の産物に過ぎないんだよ。ただの妄想の産物だ。そんなものが、いくら喚いたところで、いくら消えたところで、何になるというんだ? 現実には何の関係もない。何の意味もないんだ」
「ふざけるな!」
ベブルはウォーロウに再び殴りかかった。だがその腕を、ウォーロウに受け止められる。ウォーロウは嗤う。
「飼い主に逆らうのはよくないぞ。お前はこの僕——“
「黙れ!」
ベブルはウォーロウの顔に頭突きを喰らわせる。だが、まったく、効いている様子はなかった。
横合いから、オレディアルがウォーロウ目掛けて魔導銃を撃つ。だがそれを、ウォーロウが腕で跳ね返した。返ってきた魔導銃弾に撃たれたオレディアルはその場に倒れる。
ウォーロウは一言言う。
「邪魔をするな、幻影のくせに」
「てめえ……!」
ベブルは“
『
「完全に融合したと言っただろう。つまり僕は、『実在』になったのだ。それが、こんな空想上の炎に焼かれることがあるか? あるわけがないだろう?」
「何だと、ふざけるな……」
「大人しく僕のしもべになることだ。そうすれば、お前も実在にしてやろう。断るというのなら、ここで消してやる」
「消えるのはてめえだ!」
炎の勢いが、より一層強くなる。ふたりの周りに閃光と稲光が飛び散る。『破壊の力』同士がぶつかり合っているのだ。
暗い周囲を、衝突するふたつの力が明々と照らす。
「そんなものが“イフィズトレノォ”に通用するか! 僕はこの世界の『支配者』なのだぞ! 僕の世界の強制コマンドが、僕自身に通用するとでも——」
だが、消滅を始めたのはウォーロウのほうだった。ベブルは消えない。
「そんな」
ウォーロウの表情が青褪めた。
「なぜ、なぜこの僕が消えなければならないんだ! 僕は、僕は実在なんだぞ! なぜ、幻影に消されなければならない! まぼろしのまま消えるのは嫌だ、僕を見捨てるな、“イフィズトレノォ”ォォォ―――ッ!」
炎が止んだ。
強い雨が降っていた。
ウォーロウ・ディクサンドゥキニーは消滅した。
辺りは薄暗かった。
++++++++++
誰が声を掛けても、ベブルは反応しなかった。
彼はずっと、拳を握り締めたまま、そこに立ち尽くしていた。
雨に打たれたまま。
オレディアルによってウェルディシナ、ディリア、ウィードの傷が治療され、ベブルを心配しながらも、仲間たちはボロネへと帰って行った。
それでも、ベブルは無言で、そこに留まっていた。
フィナの身体にムーガの白ローブが被せられ、仲間たちがそれを運んで帰っても、ベブルは動かなかった。
ひとりでは歩けなくなっていたムーガは、帰るときにウィードの肩を借りていた。帰るときに彼女はベブルのほうを何度も振り返ったが、そのときにも、彼は振り返らなかった。
誰もがそこを離れ、ひとりになっても、ベブルはそのままだった。
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