第十二章

第十二章① 忘れているだけ

 低く唸るような音。


 大地が震えている。


 俺は逃げていた。


 炎の津波が押し寄せてくる。


 世界を滅ぼした炎だ。


 いまやもう、俺の他には、生きているものなどいない。


 大地を燃やし、空を焦がした、浄化の炎。


 そう、浄化だ。


 ありとあらゆるもので犇いていたこの世界は、この炎の津波によって、全て消し去られたのだ。


 あとに残ったのは、死の世界。



                死。



 すべての生けるものが、あの炎の中へ消えて行った。


 すべてを破壊し尽くし、そして——清浄な世界を生み出した。


 怒り、憎しみ、苦痛、そして、恐怖——すべてを浄化した。


 ここにはもう、なにもない。


 俺は炎に飲み込まれた。


 死なない。


 俺は死なない。


 そうだ。なにも怖れることなどない。


 逃げる必要はなかった。


 この世には、恐怖など、なかったのだ。


 炎がすべてを解決した。


 俺が居るのは、この、清浄な世界だ。


 すべては、俺の意のまま。


 そう、すべては——


 すべては、妾の、思うがまま——


     すべては、妾の、意のままなのだ——

 

                そうでなければならない。



 ベブルは、叫びながら起き上がった。


 ベッドの上で、ベブルは目を見開いて荒く呼吸をしていた。背中には、気持ちの悪い汗をかいている。


 ここしばらく、呼びかけの『声』は聞かなくなった。その代わり、『声』がそのまま自分の声になっている幻覚を見るようになった。


 しつつある。


 『自分自身』を奪われつつある。


「胸糞悪い……」


 ベブルは呼吸を落ち着けると、かぶりを振り、髪を掻いた。


 いまに見てろよ。


 あいつに掛かれば、お前なんか……。


++++++++++


 魔王の黒魔城を後にして、ベブルとフィナは南西へと向かった。ふたりの乗っている大犬の魔獣・ディリムの脚が、律動的に大地を蹴る。


 ベブルはふと前を向いた。大犬の首に掴まりながら。


 黒い三つ編みが波打っている。


 フィナは、ベブルが学術都市フグティ・ウグフに行くと言い出したとき、ひと言も不満を漏らさずに賛成した。本来、彼女がつきあう必要性は全くないはずなのだが。


 ベブルはディリムの腹を蹴り、フィナの大犬に追い付かせた。そして、なんとか彼女に並ぶ。彼女は、運動神経は極端に悪いものの、魔獣に乗る技術は非常に高い。


 ベブルはフィナに声を掛ける。


「おい、デューメルク」


「なに」


「お前、何でフグティ・ウグフに行くんだ? お前には、特に用はないだろうが」


「だったら、どこへ」


「はあ?」


「魔王の城にはいられない」


 フィナの住んでいる街、ラトルは、フグティ・ウグフを経由して南へ向かい、ノール・ノルザニの街を越えた先にある。ただ帰るにしても、フグティ・ウグフは経由せざるをえない。そういうことだ。ただし、時代は違うものの。


 まあ、そんなもんだよな。そう思って、ベブルは退がった。この女が、自分にとって手間のかかる事を、わざわざ他人のためにわけはねえ。


 ベブルはじっと、前を行くフィナの後ろ姿を見ていた。


 この素っ気ない女が、俺の妻となる女だっていうのか? それも、そのことは、未来世界では『歴史的事実』として扱われている……。ふざけんな。


 だが……と、ベブルはまた思う。『歴史的』には、俺はいつ、この女と結婚したことになっているのか? その数字をムーガに訊いておくべきだった。俺はもうすぐ、その数字がひとつ大きくなる。その数字の歳になれば、この女を徹底的に遠ざけてやる。



 学術都市フグティ・ウグフへは、ディリムに乗って七日の行程だった。過去世界(ベブルたちの時代からみて百二十年前の世界)の黒魔城~フグティ・ウグフ間には、道らしい道もなかった。そのため、ふたりは野宿をしつつ進んでいた。


 だが、それに疲れると、未来世界(ふたりの時代からみて六十年後の世界)へと百八十年の時を飛び、その時代に繁栄している街道沿いの宿屋に泊まった。宿屋の中には、ふたりのことを『救世主ムーガ・ルーウィング一行の仲間』として覚えている者もあり、ご馳走が振舞われることもあった。


 道中、ふたりは木の陰で休むことにした。日がな一日動物に乗ったままというのは、体力的にも精神的にも疲れるものだ。


 ベブルは手の甲で前髪を掻き揚げて、空を仰いだ。白い雲の浮かぶ青い空。穏やかな色をしている。そこへ、フィナが歩いて来る。その空が、そのまま彼女の背景となる。黒髪が風に煽られている。


「そういえば、お前、前に言ったよな。『声』はお前の声が聞こえない、って」


 ベブルは、木の根元にもたれて座りながら、フィナに話しかけた。彼女は少しも表情を変えず、無言でうなずく。


「向こうの声は聞こえるのに、お前の声は向こうに届かないんだな」


 フィナは同じ木の陰に入る。逆光で、彼女の顔は見えなくなる。


「そう。『声』は貴方の声しか聞こえない」


 ベブルは頭の上で両手を組む。


「どういうことなんだ? 俺とお前以外、誰も奴の『声』は聞こえない。お前と同じく、生まれつき世界改変に気付けたウィードにも、『声』は聞こえないみてえだ。それに、俺と同じ破壊の『力』を持ったムーガでさえ、『声』は聞かないと言っていた。なのに、お前だけは聞こえる……」


 フィナは目を瞑り、首を左右に振った。それに連れて、三つ編みのお下げが撥ねる。


「わからない」


「なあ、もしかして、俺とお前とムーガとウィード。全員が全員、似たような異変を持っていて、原因はバラバラなのか?」


「わからない」


「……使えねえ奴だな」


 ベブルは大きく溜息をついた。


++++++++++

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