第一章⑦ ふたつの孤独

 翌日の昼頃、一行はようやくラトルの街に到着した。ラトルの街周辺一帯はどんよりと薄暗く曇っていて、小雨が降り始めていた。


 「よっ、ゼス!」「ゼスじゃないか、元気してたか?」等々……、ゼスは町ゆく人々のほとんどから話し掛けられていた。ここラトルは、彼の故郷でもあった。木こりに雇われ警固団員、という妙な肩書きもあるが、情報屋でもあると主張するのは本当なのだろう。彼はそこにいるだけで、人々の中心に立ってしまう。


 一方、フィナもここラトルの住人だ。生まれはこの街より遠く、北方のジル・デュールという都市だが、最近六年間のほとんどは、このラトルで暮らしている。……そのはずなのだが、彼女はといえば、誰からも、全く話し掛けられることはない。彼女は、殆どの人間と関りを持っていない。


 ベブルとフィナは、黙々と歩きつづけている。彼らふたりは、この先の霊峰ルメルトスに向かっているのだ。


 ゼスは立ち止まって、ちっとも足を休めようとしない、前方を行く彼らに訊いた。


「なあ、どこに行くんだ、おふたりさん?」


「ああ?」


 ベブルは振り返った。フィナも、立ち止まって振り返った。


「俺がどこに行こうとしてるかぐらいわかってんだろ?」


「山」


「だから、ちょっとは休まないかってことだよ。俺んち、ここの近くだから」


 ゼスは右手で、彼の家のあるらしい方向を示した。


「知らん」


 ベブルはそれだけ言うと、霊峰の方へ向かって歩き出した。


「おい……!」


 ゼスはベブルを止めようと声をかけたが、彼は止まらなかった。


 ベブルが立ち止まらないと見ると、ゼスはフィナの方に目をやった。しかし、そこに救いがあるはずはない。彼女は何も言わずに立ち去ったのだった。


「俺って……」


 ゼスは街の真ん中でそう言って、それ以上何も言えなかった。


++++++++++


 ベブルとフィナは、霊峰ルメルトス山頂にある『懸崖の哲人』ヨクト・ソナドーンの庵に到着した。ベブルにとっては、ここは九年の長きに亘って足を踏み入れていない親の家だったが、不思議と、記憶の中にある実家と一致するところが多く、奇妙な感覚を持った。


 ヨクトは、フィナがここを出発したときと同じく、奥の部屋の椅子にひとり座っていたが、ふたりが来たのを見るなり表情を明るくして、こう言った。


「おお、よく帰ってきたリーリクメルドよ。デューメルクも、ご苦労であったな。……リーリクメルド、その桃色の髪、昔よりも鮮やかになったな。幼い頃は金髪だったが、お前の中にある高い魔力がそれをその色に変えたのだな」


 このアーケモス世界においては、ほとんどの人間は、黒か、茶か、金髪か、またはそれに近い色の髪を持って生まれてくる。だが、すぐに色が変わってしまうものたちもいる。彼らは、その身に強力な魔力を秘めているのだ。その魔力を使いこなせるかどうかは別として。


 髪の色で見れば、ゼスも変わった色をしていた。彼の髪は鮮やかな赤だった。ということは、彼にも魔力があるということだ。しかし、魔法の練習をしなければ、ただの人で終わりだ。もっとも、そのような奇抜な髪の色をしていない者たちでも、有能な魔術師になることは可能だった。現に、金髪のヨクトや黒髪のフィナがそうであるように。


 ヨクト・ソナドーンは揺り椅子に深く腰掛ける。


「これからお前には魔術の修行を積んで、この霊峰ルメルトスを継いでもらわねばならぬ。そのための修行の覚悟はあるということだな?」


「何を勘違いしてやがる。俺がここに来たのは貴様から面白そうな魔導書をいただくためだ。それ以上でも以下でもねえ」


「……なんと?」


 ヨクト・ソナドーンは息子の発言の意図が分からず、フィナに説明を求めようとした、だが、彼女は「それでは」と言って庵から退出してしまった。取り付く島もない。


 ヨクトは咳払いする。


「まあ聞きなさい息子よ。私もいい歳だ。それに後継者も数年やそこらで育つものでもない。もう時限に差し掛かったのだ。世間の評判もある。デューメルクに次がせるのは容易い。だが、お前がいながらお前が継がないというのは体面が悪い……。それはわかるな?」


 庵の窓の外の木々がパチパチと音を立て始めた。そして火を噴く。炎の竜巻だ。いま、このルメルトスの庵は、燃えさかる炎の壁に四方八方を囲まれている。


「貴様のそれには飽き飽きしてんだ、こっちは」


 ベブルの声には怒気をはらんでいた。


「な、なにをする……」


「貴様のいう世間にも、『哲人』という肩書きにも、俺は興味がねえッ! 言っただろ、俺がここに来たのは、そういうクソみてえなもののためじゃねえ!」


 火炎は庵の中にも発生し始めた。


「ま、待て、早まるな! 魔導書、魔導書だな、それなら後継者になればいくらでも……!」


「くどい!」


 ベブルは拳を天井に向かって突き上げ、ただひとつ憶えている炎の魔法を唱えた。


 瞬時に、魔術師の庵が燃えあげる。屋根が吹き飛んだ。魔法の炎が小屋を火炎で包み込んだ。燃えているのは小屋だけではない。山が燃えている。もともと緑の少ない山だった。しかし、葉を落として枯れたような木は、あちこちに生えていた。それが今、真っ赤な山になって燃えている。天を焦がさんばかりに。


「景気よく燃えろ―――ッ!!!」


 ベブルは興奮した状態で、更に魔法の威力を強めた。もう止まらない。


 山火事が鎮められたのは、庵の周辺にある木々が燃え尽きたあとだった。鎮火してくれたのは、雨のおかげだ。夕暮れから雨足が強まったおかげで、庵も骨組みは残ってくれた。


++++++++++


 夜更け。雨は止み、空は晴れ上がった。


 ベブルは父親の庵のあるところから深い森を越えた先にある、崖に来ていた。



 空には満天の星々。


 この崖は、小さい頃彼が好きだった場所だ。視界に何も邪魔の入らない、広大な夜空だけが拡がる場所。世間体を気にして小さくなっている父親も、優しかった母親も、誰も知らない、彼しか知らない場所だ。


 つい頭に血が上って庵を焼いてしまったがために、自分でも読めそうな程度の魔導書は黒焦げの塊になってしまった。わざわざラトルまで足を伸ばしたものの、これではその労苦も意味がなくなってしまった。明日は早々にノール・ノルザニに帰ろうと、ベブルは思った。



 そのとき、背後の茂みが音を立てた。ベブルは振り返る。


 そこには、フィナがいた。


「雨が止んだのか」


「お前、どうしてここが……。ここは俺しか知らない場所のはず」


 フィナは立ち止まって、表情ひとつ変えず、ベブルを見つめていた。


 また、柔らかい風が吹いた。三つ編みの黒髪と、裾の長いスカートとローブが風にさらわれる。


 微笑って……いる? ベブルは一瞬そのような印象を受けたが、いや、フィナの表情は何らの感情も浮かべていない。その……はずだ。



「光が綺麗なのか、闇が綺麗なのか」


「ん、あ?」


「夜空」


 フィナの声は夜の空気によく響いた。


 星々は瞬き、時が流れていることを告げていた。時の流れとともに、星々も、ゆっくりとではあるが着実に、流れていっていた。そしてその流れを反転させることはできない。


 動き始めたのだ。孤独な者たちの物語が――。

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