第345話 ■「医術の芽生え」

「いやぁ、平和だねぇ」


 執務室の窓から見える青空を眺めお茶をすすりながら僕はほのぼのと呟く。


「何言ってるの。今は絶賛戦争中なのよ」


 そんな僕に左斜め前で十センチほど積み上げられた書類に次々とサインしていたクリスが呆れたように言う。


「いや、そうは言うけどさ。こっちは日課の魔力消費の代わりに前線に物資を転送させたらお役御免だからねぇ」


 二月になる頃には、北部貴族連合との戦いもちょっとした小康状態に突入している。

 というよりそれまで政務を一手に対応していたラスティアを失った北部貴族連合はまともな部隊運用が出来ずに碌な抵抗も出来ぬまま各個撃破。

 戦線をじりじりと北側に移動させて、間もなくエウシャント伯の主都コーカススに到達する予定である。

 その中で過分な装飾はあるだろうが、率いるクイの名采配の報も伝わってきている。

 やれ、『敵兵五人を魔法と剣術で生け捕りにした』というのはクイの実力を考えれば理解できるが『一度の魔法で防衛基地を焼き払った』は盛りすぎだろうと思う。


 まぁとりあえずそれだけの話が伝わってくるということは、随伴している騎士団たちからも徐々に信頼を勝ち取っているのだろう。

 それだけで既に今回の戦争の一つの目標は達成されたと言ってもいいだろう。


 中央で行われている後継者争いの戦争は、リンクからの精神感応による情報では、部分的な衝突という貴族的な戦争が進んでいて戦況は均衡しているものの徐々に有利に推移しつつあるらしい。


「まぁエルスは今も療養中という体ですからね。大々的に動きを見せるわけにはいきませんから。

 ちょっとした休暇と思えばよいのでは?」


 僕とクリスの会話に自身の書類処理が終わったアリスも参加してくる。

 アリスたち執務官の業務改善によりかつての当主である僕に集中していた陳情などの書類は、各担当で配分された予算により決済が行われる形が出来上がり当主――今は当主代理のクイ――は最終決定が必要な範囲での決裁のみと簡略化されている。


 それは良いことではあるのだけれど暇になれば暇になったで手持ち無沙汰を感じてしまうのは人間だもの仕方ないよね。


「まぁそうなんだけどさ。あー、何か面白いことは起きないかあぁ」


 そう言いながら僕は、クリスとアリスしかいないことをいいことに机に突っ伏す。

 そんな僕にだらしないわねぇと言わんばかりにクリスとアリスは苦笑いする。


 コン、コン


 そんなとき、扉を遠慮がちにノックする音が響く。その音に僕はすぐさま身を正す。


「どうぞ」


 僕にやれやれといった表情を向けながらアリスはノックの音に応える。


「す、すみません。失礼します……」


 そんな中、おどおどっといった感じに扉が開くと一人が部屋へと入ってくる。


「これはアンさん。何かありましたか?」


 入ってきた一人にクリスは対外向けの優しい微笑みを向ける。

 アン――アーガント・レクスは今年になって仕官することになった十五歳の少女である。


 十五歳とはいえ彼女は『医術、特に免疫学と防疫といった感染症、生物災害への知識を持った人物』のギフトを付与されている。


 この世界では、治癒魔法が存在するためいわゆる医術というもののレベルは低い。

 なにせ医術というものはその発展には高額な資金が必要となる。けれどパトロンとなりうる上流階級には治癒魔法があるのだから眉唾物の医学というものに出資金を出すものは自ずと少ない。


 そうなると医学者の相手は中流もしくは下流階級となる。それでは見返り――つまりは報酬も期待は出来ない。

 結局、医学は発展せずいまだに民間療法という名の呪いが主流となる。


 そこを改善するために今年開設したバルクス医学研究室のメンバーの一人が彼女である。

 まぁ、ぶっちゃけると彼女以外のメンバーは医学についてはまったくの素人。

 クイやマリーが連れてきた人や学校の優秀者の中から年下への偏見が薄い人を選抜した要は彼女のサポート役となる。


 とはいえ、そんなことを彼女に伝えれば重責につぶれる可能性があるので対外的には同期のメンバーという位置づけである。

 まだ開設したばかりで忙しいであろう彼女がわざわざ僕たちのところまで何の用だろうか?


「あ、あの、すみません。いそが……お忙しいところをお、お邪魔します」

「アンさん。無理して敬語を使わなくても大丈夫ですよ。相手に対する敬意がその所作にあれば我々は気にしませんから」

「は、はい! ありがとうございます」


 クリスの言葉にアンは勢いよく頭を下げる。


「それでは改めて。何かありましたか?」

「は、はい。エルスティア様にお願いしたいことがありまして……」

「私に願い?」


 そうしてアンは言葉を続けるのであった。


 ――――


「なるほど。新薬研究のためにカビの培養器と精度の高い顕微鏡が欲しい。と」

「は、はい。技術部の方々にお願いする前にエルスティア様の了解をいただきたいと思いまして……」


 アンのお願いとは詰まるところは、研究のための器具の催促といったところである。

 バルクス医学研究室にはそれなりの予算を出しているから直接技術部――ベルやメイリアの所だ――に申請すればよいのだけれど律儀にも僕に承認を取りに来たらしい。


「ねぇ。顕微鏡というものもなにかはよくわからないんだけれど、カビの培養器って意味があるの?」


 そんな中、話を一緒に聞いていたクリスが疑問を口にする。

 確かに普通に考えればカビなんて腐敗した食品や湿気の多い風呂場に発生する忌まわしきものだもんねぇ。


「カビって言うのは人体に悪影響を与えるものもあれば逆もあるんだよ。

 例えばペニシリンっていう抗菌剤はアオカビから発見されて……」


 昔小説か漫画でアオカビからペニシリンを作るものがあったなぁと記憶を呼び起こしながら言う僕の言葉にアンは、目をキラキラさせながら大きく頷く。

 あ、これはまずい。アンが暴走して医術の話を喋りだす奴かもしれない。

 僕自身も付け焼刃の知識はあれど彼女のディープな話になるとついていくことは出来ない。

 そう思った僕は空気を変えようと一つ咳払いをする。


「まぁ詰まるところカビから新薬を作るって言うのは無い話ではないんだよ」

「はい、エルスティア様のおっしゃる通りなんです。皆様はこの国の死亡原因の高いものってしっていますか?」


 この国――平民であるアンにとってはバルクス領の事だ――の死亡原因か。確かに言われてみれば考えたこともなかった。

 クリスやアリスも同様だったようで小首をかしげる。


「農作業中のケガや魔物といった動物のひっかき傷からの原因不明の死です」


 僕の少ない知識の中でも傷口が原因となれば細菌ということだろう。そして破傷風といった名前が思いつく。

 けれどこの世界ではあくまでも原因不明の死でしかない。細菌という存在自体を知らないからだ。


 つまりはペニシリンといった抗『菌』剤という言葉すら理解できないといえる。

 それはクリスやアリスであっても同じであろう。なにせ細菌の多くは目視することができないのだから。


「つまりはその原因を究明するための顕微鏡と対応するための培養器ということだよね?」

「は、はい! その通りです」


 僕の言葉にアンは大きく頷く。彼女にとっては恐らく誰も理解することが難しいと考えたのであろう。

 理解されないということは易々と承認されることは無い。それを少しでも打開するために――少なくても一般人よりは理解が深い――僕に直談判という気持ちでここを訪れたのだろう。


 その事が、この世界での医学の進歩の難しさを思い知る。だが今は実績がないゆえの事である。

 これから実績を作っていけば彼女の話を聞くものも増えていく。それまでの準備期間と考えればよい。


「うん、了解した。それじゃ私の方からベルかメイリアに概要は伝えておく。

 以降の詳細な部分はアンと技術部ですり合わせる。それでいいかな?」

「はい、最初のお話をしていただければ十分です」


「それから今後の開発に関しての相談は、直接技術部としてもらっても大丈夫なように連絡しておく。

 何かあれば私に直接相談してもらっても構わない」

「ありがとうございます! エルスティア様がある程度関わっていただけるのであれば安心です」


 僕の直接的な関与についての承認がもらえたことにアンは安堵したように笑うのであった。

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